我がベランダ栽培の檸檬の樹に、今年も夏みかんのような檸檬が実った。
早く普通のレモンのようにしっぽが尖らないかなぁ…と見守っていたが、やはり丸いままだった。
一年後輩のもう一株の檸檬は、ちゃんとレモンの形をして青い実で年を越し、寒の入りから黄金色に色づいてきたというのに…。
このハッサクの如き丸いレモンをいつ収穫するべきか、私は悩んだ。
ハッサク––––柑橘類のなかで最愛の果実。私は日々八朔さえあれば生きていけるのである。
子供のころから、あの赤いネットに数個一連に詰められて売られているハッサクがあろうものなら、一日に最低二つ…いや、三つは必ずペロリと平らげてしまうのである。苦くて酸っぱい、甘くない。そこがよいのだ。
とある仕事の恩人S氏のご実家の御父君が生前、丹精したハッサクをこの時季に頂くのは無類の愉しみ、歓び、僥倖であった。瀬戸内海の島々に限りないあこがれを抱く私にとっての秘かな夢は、晩年、瀬戸内の浜辺で八島落官女の業=やしまおちかんじょのなりわい…のように半農半漁生活を営むことだった。
(山姥の海版…磯姥、浜姥とでも申そうか……いや、アマ、海士、海女という言葉をいま思い出したが、私は水府流のし…どころか犬掻きしかできないからムリだ………)
海に面した日当たりのよい半島の急斜面に広がる柑橘類の果樹畑、みかんの花咲く丘…この景色にあこがれを抱かぬ昭和生まれの者がいるとするとモグリである。
関東でいえば内房総や三浦、また太平洋に面した伊豆や紀伊の国の、山稜がそのまま海に突き出た丘陵地帯の風景を眺め、海風に吹かれながら突端の灯台へいたる道を散策する…岬めぐり、という歌も行動にも限りない愛着を持つ私には、その記憶をなぞり思い描くたび、一陣の爽やかな風に慰められる心地がする。どんなに重たい失望のふちにいるときでも。
それは、三十代前半からつらく悲しいことがあると、そのイメージでもって脳内をスプラッシュ!!し、気を取り直す我がトランキライザーでもあった。具体的に言えば『角姫(つのひめ)』という小説の一場面、主人公とボーイフレンドが岬へ至る尾根道を散歩するシーンである。
何ものかに成るべく日々世に出て働いている20~30歳台の女子にはつらく厳しいことが多いのだった。
例えば、プリンや蜜柑入り牛乳寒天が立派なお菓子になろうとする前の、成りたい未来の確固たる自分ではなく、まだまだ固まらないふにゃふにゃとしたヒルコ神のような混沌たる自分の存在を持て余しつつも、冷たく暗い冷蔵庫の中でじっと、その境遇に耐えて、固まるときを待っている、そんな切ない日々を過ごすための心の灯としていたもの…映画や芝居、寄席や読書、そして音楽…などが、若者には魂の糧として必要なんだけれども、
その時代に特に好きだったのが、三橋一夫の作品集だった。
三橋一夫は、戦後の「新青年」誌では幻想小説、ファンタジーの分野に区分けられることが多い。ユーモアとウィットに溢れていて、都会的センスとメルヘン味が加味され、とりとめがないわけではなく、それなりにオチがある。
いま私が彼を市中に拡めるべきキャッチを書くとすると……ぅぅむ、新作落語小説、といえるかもしれません。
国書刊行会から1992年刊行された探偵クラブ叢書中の一冊『勇士カリガッチ博士』は、いまでも手放せない。ページをめくるのは10年に一度有るか無いかなのだけれども。
同書中の一篇、昭和29年に発表された『角姫』を、柑橘系恋愛小説と形容させていただく。
そのイメージにぴったり合う絵を…若干ニュアンスは違うが「岬めぐり短編集」というようなアンソロジーを編むとしたら挿絵に使いたいという感じの……20世紀末のあるとき私は、当時存在していた目黒雅叙園美術館コレクションの中に見つけた。
山本丘人の昭和11年作「海の微風」であった。海に面した半島の斜面に広がる緩やかな丘陵面の畑を遠景に、その風光を四ツ目結いにした垣根の境目から見下ろす、三尺帯を蝶結びにし、夏の振袖を着た少女の後ろ姿。絵葉書だけが手元にある。
あの絵にまたいつかどこかで巡り合いたい。
通年、季節を超えての大好物がハッサクであるとすると、わが心の中のフルーツ番付、西の横綱は赤い紅玉である。
(リンゴの紅玉が赤いのは当然なのであるが、竹に雀か竹林のトラか、マイフェバレット・ホームズ物の青い紅玉というのが紅玉という言葉に付き物の我が慣用句なので、敢えてこう書いてみた)
数ある林檎の種類の中で、やはりわが最愛の品種が、この紅玉なのであった。
紅玉は昭和のころ、小玉で安価で、大量に袋に入れて売られていた。
赤い膚に歯を当てて丸ごとかじると(歯磨きのcmではありませんが)すっぱいが、そこがよいのだ。
しかし、この紅玉がなかなか手に入らなくなってきた。悲しい。お店で売っていないのだ。
紅玉が見当たらないときは、王林を代替に買ってもみた。♪青いリンゴ~も、実物ではなく歌ならなかなかに酸っぱくて切なくてよいのだが、近年世に多く流通している多数派の品種の甘いリンゴは好きではないのだ。私は、熟れて甘くやわらかい果物より、固く酸っぱい歯ごたえのある食べ物が好きなのである。こと水菓子に関して言えば。
果物に限ったことではない。どうして世の中はああも柔らかく甘いものが主流になってしまったのだろうか。
物事の本質を見極めずに、世の時流だか方向性に右へ倣えしてソフトでぐにゃぐにゃした方向へなし崩し的に流れていくことどもの気持ちの悪いことと言ったら。
さてさて、レモン。
檸檬と言ったらこれはもう梶井基次郎のものではあるが、彼を知った思春期の私ではなく、子ども時分からのイメージでいえば、1970年代、昭和45年前後のインテリアには欠かせぬモチーフであったのだ。
当時を代表するレモンちゃんという女性アナウンサーもいらしたけれども。水森亜土のイラストも全盛であったけれども。
すっぱくてはじける、明るくキラキラしたあの時代の日本を包括するような存在が、レモン。
わが青春を彩る大瀧詠一メロディの、♪ゆめで見たよな、キラキラ輝く世界。
カタカナのレモン。イエローとグリーン。
レモンソーダにレモンパイ、は、同時代のマイフェバレット少女漫画家の山田ミネコ。
…なんてことを、とりとめもなく漢字の檸檬、梶井基次郎の生誕記念日一月前に考えた。
当面の問題は、我が家の檸檬をいつ収穫するか、であった。
早く普通のレモンのようにしっぽが尖らないかなぁ…と見守っていたが、やはり丸いままだった。
一年後輩のもう一株の檸檬は、ちゃんとレモンの形をして青い実で年を越し、寒の入りから黄金色に色づいてきたというのに…。
このハッサクの如き丸いレモンをいつ収穫するべきか、私は悩んだ。
ハッサク––––柑橘類のなかで最愛の果実。私は日々八朔さえあれば生きていけるのである。
子供のころから、あの赤いネットに数個一連に詰められて売られているハッサクがあろうものなら、一日に最低二つ…いや、三つは必ずペロリと平らげてしまうのである。苦くて酸っぱい、甘くない。そこがよいのだ。
とある仕事の恩人S氏のご実家の御父君が生前、丹精したハッサクをこの時季に頂くのは無類の愉しみ、歓び、僥倖であった。瀬戸内海の島々に限りないあこがれを抱く私にとっての秘かな夢は、晩年、瀬戸内の浜辺で八島落官女の業=やしまおちかんじょのなりわい…のように半農半漁生活を営むことだった。
(山姥の海版…磯姥、浜姥とでも申そうか……いや、アマ、海士、海女という言葉をいま思い出したが、私は水府流のし…どころか犬掻きしかできないからムリだ………)
海に面した日当たりのよい半島の急斜面に広がる柑橘類の果樹畑、みかんの花咲く丘…この景色にあこがれを抱かぬ昭和生まれの者がいるとするとモグリである。
関東でいえば内房総や三浦、また太平洋に面した伊豆や紀伊の国の、山稜がそのまま海に突き出た丘陵地帯の風景を眺め、海風に吹かれながら突端の灯台へいたる道を散策する…岬めぐり、という歌も行動にも限りない愛着を持つ私には、その記憶をなぞり思い描くたび、一陣の爽やかな風に慰められる心地がする。どんなに重たい失望のふちにいるときでも。
それは、三十代前半からつらく悲しいことがあると、そのイメージでもって脳内をスプラッシュ!!し、気を取り直す我がトランキライザーでもあった。具体的に言えば『角姫(つのひめ)』という小説の一場面、主人公とボーイフレンドが岬へ至る尾根道を散歩するシーンである。
何ものかに成るべく日々世に出て働いている20~30歳台の女子にはつらく厳しいことが多いのだった。
例えば、プリンや蜜柑入り牛乳寒天が立派なお菓子になろうとする前の、成りたい未来の確固たる自分ではなく、まだまだ固まらないふにゃふにゃとしたヒルコ神のような混沌たる自分の存在を持て余しつつも、冷たく暗い冷蔵庫の中でじっと、その境遇に耐えて、固まるときを待っている、そんな切ない日々を過ごすための心の灯としていたもの…映画や芝居、寄席や読書、そして音楽…などが、若者には魂の糧として必要なんだけれども、
その時代に特に好きだったのが、三橋一夫の作品集だった。
三橋一夫は、戦後の「新青年」誌では幻想小説、ファンタジーの分野に区分けられることが多い。ユーモアとウィットに溢れていて、都会的センスとメルヘン味が加味され、とりとめがないわけではなく、それなりにオチがある。
いま私が彼を市中に拡めるべきキャッチを書くとすると……ぅぅむ、新作落語小説、といえるかもしれません。
国書刊行会から1992年刊行された探偵クラブ叢書中の一冊『勇士カリガッチ博士』は、いまでも手放せない。ページをめくるのは10年に一度有るか無いかなのだけれども。
同書中の一篇、昭和29年に発表された『角姫』を、柑橘系恋愛小説と形容させていただく。
そのイメージにぴったり合う絵を…若干ニュアンスは違うが「岬めぐり短編集」というようなアンソロジーを編むとしたら挿絵に使いたいという感じの……20世紀末のあるとき私は、当時存在していた目黒雅叙園美術館コレクションの中に見つけた。
山本丘人の昭和11年作「海の微風」であった。海に面した半島の斜面に広がる緩やかな丘陵面の畑を遠景に、その風光を四ツ目結いにした垣根の境目から見下ろす、三尺帯を蝶結びにし、夏の振袖を着た少女の後ろ姿。絵葉書だけが手元にある。
あの絵にまたいつかどこかで巡り合いたい。
通年、季節を超えての大好物がハッサクであるとすると、わが心の中のフルーツ番付、西の横綱は赤い紅玉である。
(リンゴの紅玉が赤いのは当然なのであるが、竹に雀か竹林のトラか、マイフェバレット・ホームズ物の青い紅玉というのが紅玉という言葉に付き物の我が慣用句なので、敢えてこう書いてみた)
数ある林檎の種類の中で、やはりわが最愛の品種が、この紅玉なのであった。
紅玉は昭和のころ、小玉で安価で、大量に袋に入れて売られていた。
赤い膚に歯を当てて丸ごとかじると(歯磨きのcmではありませんが)すっぱいが、そこがよいのだ。
しかし、この紅玉がなかなか手に入らなくなってきた。悲しい。お店で売っていないのだ。
紅玉が見当たらないときは、王林を代替に買ってもみた。♪青いリンゴ~も、実物ではなく歌ならなかなかに酸っぱくて切なくてよいのだが、近年世に多く流通している多数派の品種の甘いリンゴは好きではないのだ。私は、熟れて甘くやわらかい果物より、固く酸っぱい歯ごたえのある食べ物が好きなのである。こと水菓子に関して言えば。
果物に限ったことではない。どうして世の中はああも柔らかく甘いものが主流になってしまったのだろうか。
物事の本質を見極めずに、世の時流だか方向性に右へ倣えしてソフトでぐにゃぐにゃした方向へなし崩し的に流れていくことどもの気持ちの悪いことと言ったら。
さてさて、レモン。
檸檬と言ったらこれはもう梶井基次郎のものではあるが、彼を知った思春期の私ではなく、子ども時分からのイメージでいえば、1970年代、昭和45年前後のインテリアには欠かせぬモチーフであったのだ。
当時を代表するレモンちゃんという女性アナウンサーもいらしたけれども。水森亜土のイラストも全盛であったけれども。
すっぱくてはじける、明るくキラキラしたあの時代の日本を包括するような存在が、レモン。
わが青春を彩る大瀧詠一メロディの、♪ゆめで見たよな、キラキラ輝く世界。
カタカナのレモン。イエローとグリーン。
レモンソーダにレモンパイ、は、同時代のマイフェバレット少女漫画家の山田ミネコ。
…なんてことを、とりとめもなく漢字の檸檬、梶井基次郎の生誕記念日一月前に考えた。
当面の問題は、我が家の檸檬をいつ収穫するか、であった。