キリストのあかしびと 公教会の教父たち

公教会(カトリック教会)の諸聖人、教父、神父らの伝記を掲載していきたいと思います。彼らは、クリスチャンの模範です。

目次

2029-03-30 17:45:44 | 目次
フェイスブックにおいてあるグループに投稿・連載しています。

そのかたわらで、こちらでもブログを営んでいます。

=目次=

1、地獄に関して

2、聖リカルド・パンプーリ

3、聖ドミニコ・サヴィオ

4、地獄からの手紙

5、悪魔について

6、煉獄

7、煉獄体験談

8、シュステル枢機卿

9、聖カジミロ

10、身体障害者の聖人 聖ヨゼフ・コトレンゴ


『ウゴ・ラッタンツィ神父 教会の忠実なしもべ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、25

2022-08-19 15:24:18 | ウゴ・ラッタンツィ神父
『ウゴ・ラッタンツィ神父 教会の忠実なしもべ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、25

◆4-2、教皇パウロ6世への手紙

4)この説はまた、教会の一致に背くことを、ラッタンツィ神父は、次のように注意しています。もし、司教が支配権をうけるのが、教皇からでなく、叙階式によるのであれば、司教は、いつでも、どこにおいても、有効に支配権を行使することができることになります。

 そうすると、離教教会の司教は、公会議に、正式の教父として参加する権利があるといわねばならないことになります。しかし、事実は、そうでなく、教皇のはからいで、オブザーバーとして参加するとしても、それは、権利でなく、例外的な許可でしかありませんでしたと。

5)叙階式による聖化職と、統治職(または、支配権)の区別は、12世紀以前にはなかったと、新しい説の支持者たちは、言いふらしましたが、これに対して、ラッタンツィ神父は、これを否定して、その区別は、少なくとも、4世紀に遡っても確められると言って、歴代の教皇たちの多くの文献で証明しました。それだけではありません。彼は、新約聖書にも、このことが暗示されていると述べています。事実、トレント公会議の明白な教えによれば、使徒たちが、司教に叙階されたのは、最後の晩餐であって、(ルカ22・19、コリソト前11・25)支配権を受けたのは、キリストの復活後です。

 まずペトロひとりに、(ヨハネ21・15-17)、ついで、他の使徒たち(マタイ28・19)にです。つまり、最後の晩餐の叙階式では、使徒たちのひとりも、支配権をうけてなかったことが、これでわかります。ニケア公会議は、支配権が司教に授けられるのは、叙階式と同時ではあるが、しかし、叙階式の力によってではないと、明らかに断言しています。


 ラッタンツィ神父は、以上のことを教皇パウロ6世に書簡で書きおくり、問題の第三章の再検討を命じてくださるようにと願いました。教皇は、その通りにされたので、正しく改められた問題の第三童が発布されました。1964年11月21日のことです。

(ウゴ・ラッタンツィ神父の弟フェデリコ・ラッタンツィ神父と、日本語版の小伝を企画したデルコル神父。1983年5月29日にローマにおいて)

『ウゴ・ラッタンツィ神父 教会の忠実なしもべ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、24

2022-08-19 15:22:26 | ウゴ・ラッタンツィ神父
『ウゴ・ラッタンツィ神父 教会の忠実なしもべ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、24

◆4、教皇パウロ6世への手紙

 本書の37ページに書いてあるように、第二次ヴァティカン公会議では、教皇の首位権と、司教たちの権利について、大変な議論がありました。

 教会憲章の第三章の試案では、司教たちの権利を必要以上に主張するあまり、教皇の首位権に関する伝統的な教義がくらまされていました。その結果、教皇の不可謬権に対する第一次ヴァティカン公会議の信仰箇条までも、とり消したほうがいい、という意見が強くうち出されていました。

 ラッタンツィ神父は、自分の委員会仲間と相談して、公会議に参加する教父たちによびかけるだけでなく、教皇ご自身にも手紙を送って注意をうながしました。その手紙のなかから、おもな所だけを抜粋しましょう。

 試案の第三章21節には、司教団の統治職をペトロの統治職と混同する誤った聖書の解釈と、次の仮説が述べられていました。この仮説によれば、「司教の叙階式は、司教に聖化職を与えるとともに、教導職と統治職(支配権)を同時に与える」とうたっていました。これに対して、ラッタンツィ神父は、次のように述べています。


1)聖書解釈のまちがい

 使徒たちはみな教会の「いしずえ、または、「土台」(エフェゾ2・20、黙示録21・14)であるといわれています。その「いしずえ、は、確実に福音の教え、または、福音の宣教をさしています(とくに、エフェゾ20による)。このことは、12使徒に共通の特長です。それでこれをイエズスが、「教会の岩」にされた聖ぺトロに固有な特長と混同してはなりません。

 キリストご自身、これを明らかに区別しておられます。「岩の上にいしずえを置いて、家を建てる人iのたとえ(ルカ6・48)で明白なように、「岩」は、「いしずえ」と同じもの、同程度のものでなく、「いしずえ」を支えるものであることがわかります。


2)教皇ピオ11世は、教会に関する回章のなかで、使徒たちと、そのあとをつぐ司教たちが、福音宣教の点でみな同程度だといっておられますが、教会支配の点では、同程度でないと注意しておられます。

 しかし、この案の支持者たちは、この教義を混同してしまったことを、ウゴ神父は指摘しています。


3)14名の歴代の教皇たちは、荘厳な文書と、他の文書のなかで、教会における支配権の直接の泉は、教皇であって、教皇は、司教たちにそれを分配するものであることを明らかに教えています。

 数えきれないほどの教父、教会博士、神学者は、歴代の教皇たちの教えを支持しています。しかし、これらの人々の文献が、ちがった意味に解釈されたこともまた、残念に思いますと、こう、ラッタンツィ神父は述べています。

 また、こうもいっています。るまり、この試案によれば、支配権の直接の泉は、教皇ひとりにあるのではなく、司教団にもあるということになると。

 ラッタンツィ神父は、さらに進んで、この案では、教皇を司教団のかしらト認めているものの教皇は、司教団の賛成がなければ権利がないということになります。この説は、キリストから定められた教会の制度を覆していると述べています。

『ウゴ・ラッタンツィ神父 教会の忠実なしもべ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、23

2022-08-19 15:16:18 | ウゴ・ラッタンツィ神父
『ウゴ・ラッタンツィ神父 教会の忠実なしもべ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、23

 「聖霊のマイク」として自分を使ってくださった神に、ウゴ神父は、どんなに感謝しても、したりないほどでした。

 病床の彼は、このようにいうことができました、

「私は、聖母マリアの特権を守りました」と。

 また彼は、「神のおん母型マリア、私のためにお祈りください」と、取りつぎを願ってから、聖パウロの言葉を借りて言いました。

「私は、良い戦いを戦い、走るべき道のりを走り尽くし、信仰を守った。既に、私の為に正義の冠が具えられている。正しい審判者である神は、それを私にくださるであろう。ただ、私だけではなく、その現われを愛したすべての人々に」(ティモテオ後4、7-8)と。

 病気は長びき、3か月もの苦しみの果てに、教皇さまからの特別な祝福を受けて後、1969年1月22日に帰天しました。当年70歳でした。

 弟のフェデリコ・ラッタンツィ神父にあてた電報のなかで、教皇パウロ6世は、ウゴ神父のために祈りと、祝福をおくり、彼のことを、「教会の忠実なしもべ」と讃えました。これこそ、ウゴ神父最大の特長といわねばなりません!神の真理と愛にその身を完全に燃やし尽くした、何と偉大な、そして、幸いな生涯でしょう!

(写真:ウゴ神父の葬式。正面にひざまずいているのは、弟のフェデリコと、ふたりの姉妹たち)

『ウゴ・ラッタンツィ神父 教会の忠実なしもべ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、22

2022-08-19 15:14:49 | ウゴ・ラッタンツィ神父
『ウゴ・ラッタンツィ神父 教会の忠実なしもべ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、22

 公会議の前後も、その進行中も、ウゴ神父は、正しい信仰を守るための記事をいろいろと書きました。

 その記事は、主として、教皇立大学の雑誌、あるいは、単行本としていろいろの出版社から出ています。

 その中のあるもの、とくに教墾の首位権と聖書に関するものは、スペイン語にも、フランス語にも翻訳されています。その翻訳を別にしても、彼の著は、全部で50点にものぼっています。

 1953年、ウゴ・ラッタンツィ神父は、「危険にさらされた酉洋」という本を出しました。当時は、ヨーロッパでは、共産主義の宣伝がさかんで、力トリック信者のなかにも、この罠にかかるものが少なくありませんでした。ウゴ神父は、共産主義の真の姿をみんなに示してやる必要を感じました。こうして出したのがこの本です。これは、2部から成り立っています。

 第1部には、「約束する共産主義」というテーマで、レーニン、スターリン、ソ連の憲法だけにもとずいてしらべてみると、共産主義は、素晴らしいことを約束していると述べています。

 しかし、第2部では、「実際の共産主義」をテーマにして、同じレーニンとスターリンとソ連の憲法にもとずいて、どれほど共産主義が世界を裏切ってきたかを述べています。

 しかし、これについては、いろんな議論がかわされ、たびたび彼は.「でも、ウゴ神父さま、共産主義についての悪業の噂は、あなたの讒言にすぎませんよ」と言われました。それで、彼は、そこに書いたことを証明するため、たびたびロシア語原文のコピーをこの本の中に入れたりしました。

 やがて、イタリアに大きな問題をまきおこしてしまいました。あるときは、種々の力トリック新聞でさえ、この著書を共産党讒言の書と非難するほどだったのです。ウゴ神父も、そのたびに、いろいろの記事をもってこれに答えました。彼は、この記事のなかで、かの新聞記者の悪意と矛盾した論証を訴えています。

 彼、ウゴ神父は、まもなく、大変なことに気づきました。それは、イタリアの政治界では、まだ十分に共産王義の危険を理解していないということです。もうこれ以上、黙ってはいられません。彼は、またしても、本を書きました、それは、「イタリアよ、どこへ行くのか?」という予言的な本です。

 しかし、それだけでは、まだ足りなかったのです。当時の教会にも、既に沢山の謬説が、流行していました。

 彼は、これに反対して、聖職者に警戒を促す本と記事を熱心に書き続けました。

 どんなに疲れても、大きな危険の迫っていることを考えると、どうしてもペンを離して休息することができなかったのです。それに彼は、教皇立ラテラン大学で教えるという重大な仕事もあります。あまりの仕事に追われる毎日で、ついに彼の健療も蝕まれていきました。日に日に体は弱っていきました。ついには、生まれ故郷に近いフェルモ市の病院に入院するほどになってしまったのです。それは、教会憲章発布のあの光栄の日から、ちょうど4年目でした。

 教会憲章の作成に協力できただけではありません。その案の危険な箇所を指摘することに成功したのです。しかも、その労を教皇パウロ6世は認め、大きくねぎらわれたのです。これは、なんといっても、大きな慰めとなる思い出となっていました。