今日からブログを始めます。
私の表現しようとしていることに対して、この「ブログ」という媒体あるいは形式がどの程度相応しいものであるか、判然とはしていません。然しながら若い時、そう学生時代から読書と思索を自分のできる範囲で重ねていき、人間について、社会について、歴史について、文化について、学問、文学、芸術、映画、信仰、教育を通して、感じたことと考えたことを何処かで表現したいと思っていました。
偶然 私の友人の一人に薦められ、この度始めてみることにします。
まず「表現とは何か」について。
20年程前、私は大学院の修士論文として、幕末の志士吉田松陰をとりあげました。
皆さん、「思想家」という言葉をきいて、何を、あるいはどのような人物を思い出されるでしょうか。
プラトンやアリストテレス、カントやヘーゲル、はどちらかと言えば、「思想家」というよりは「哲学者」という言葉の方がピンとくる方が多いのではないか。
荻生徂徠や本居宣長、福沢諭吉や中江兆民はどうでしょう。
こちらは矢張り「思想家」ですね。「哲学者」ではなく。
勿論、哲学自体、明治以降日本が西洋から輸入してきたものであり「哲学者」のイメージに西洋人、古代ギリシア人が浮かぶのは当然であり、あるいは、
そういった知識をもとに思考を発展させていった西田幾多郎や井上哲次郎もそこに並んでも不思議ではありません。
一方、思想という言葉は多義的です。プラトンやカント、ニーチェやフロイトは「思想家」とも言える。
しかし、大方の思想家には主著がある。その人の生涯で一番大切な作品、
代表作。個人的に大切で、かつ大作であるという意味ではなく、
歴史的に意味がある、いや、作品自体が歴史を構成しているようなもの。
それが無ければ歴史が語れないもの。
例えば、プラトンの『国家』や『饗宴』。デカルトの『方法序説』。カントの
三大批判。マルクス『資本論』。これらの本が無ければ哲学史は成り立たない。
荻生徂徠の『弁明』『弁道』、本居宣長の『古事記伝』、福沢諭吉の
『学問のすすめ』『文明論の概略』、西田幾多郎の『善の研究』が無ければ、
日本思想史は成り立たない。
そのような主著が吉田松陰にはほとんどないのです。
そもそも書物を世に問う、という考えがない。体系だてて物事を考えたり、何かについて深く追究することもない。
しかし、それでも、『松陰全集』を読んだものは誰でも松陰を思想家だと捉える。
かつて藤田省三という人がこういう言い方をしました。
(引用)
松陰は考察の人ではなくて行動の人であり、
構成の人ではなくて気概の人であり、全てのものについて距離を維持することに不得意であって状況の真只中に突入していくことを得意とした人であった。
‥‥中略‥‥その意味で、彼には「主著」なるものはない。‥‥中略‥‥彼の歴史は失敗の
歴史であった。その失敗をその失敗の現場で書き記しているのが彼の文章である。
だからこそ、そこには臨場感が満ち溢れており、
それだからこそ読み進んで終幕近くの緊迫した場面に至るとき或る種の
深い感動をもたらすのである。
松陰には主著はなく、彼の短い生涯そのものが彼の唯一の主著なのであった。
(引用終わり)
行動と表現が密着している。
歩きながら考えている。ハムレットのように。
続く。