人に物怖じせず訊ねることができるようにと、主人は娘たちがうんと小さいころから、スーパーや百貨店などの店員さんや係員さんなどに「〇〇はどこにいけばありますか?」「〇〇という商品は置いてありますか?」など、探しても見つからなかったら「店員さんをつかまえて聞いてこい」と、聞きに行かせていた。
恥ずかしいことじゃない、どこをどうさがせばよいか分からず無駄にうろうろするくらいなら、分かる人間に聞け、訊ねろ、と。
度胸をつけると同時に、人にわかるように説明するための学習になる、生きていくために必要な訓練だ、と。
今でも、私と買い物に行って、あれはどこにあるのかしらとなると、「待ってて。聞いてくるから!」と娘は手のあいていそうな店員さんをつかまえにいって訊ねる。
行って話している娘と店員さんのやりとりを、少し離れたこの場所から見ていると、何回か言葉の往復がある。
一回で理解してもらえなかったんだな、きっと説明するために娘は頭をたくさん使ったな、と想像できる。
それはこちらですよと案内してもらい、それを少し離れて見ている私が近づいていくと、ああ保護者も一緒なのねと店員さんは安堵の顔になる。
相手に伝わらないとき、人は知っているあらゆる限りの類似語やたとえを駆使して、思い描くものとより同じものを思ってもらえるように努力する。
間違った言葉を使えば、間違って伝わるし、自分が合うと思って使った言葉が、相手には伝わらなかったということが往々にしてあるのだとわかるのは、対人間と直接接してでないと得られない。
以前、チビッ子に風船を配っている係員さんへの、娘の視線が釘付けになっているのを主人がみて、自分も欲しいと思ったのなら、自分で行って「欲しいです」って言いなさい、パパが欲しいわけじゃないからパパは行かないからね、そう言って娘に判断させた。
貰えるのか、断られるのか、それはわからないけれど、断られたのなら潔く「わかりました」って言って下がればいい、と。
もうチビッ子とは言い難いほんの少し大きい自分だけど貰いたい、いやもう風船を持って歩く歳じゃないんだからと自分に言い聞かせて通りすぎようか、周りの目もある、そんな葛藤やモヤモヤ感や恥ずかしさが沸き上がっても、貰いたい気持ちが勝って、勇気を出して言ったとしても、貰えるかはわからない。
実は何か商品を買わないと貰えないものかもしれない、チビッ子には係員さんの判断でサービスで渡しているかもわからない、貰えるものだと思っていたのは自分の思い込みだし、結果どうなるかわからないんだっていうことを丸ごと含めて行動できるかどうか。
度胸試しだ、と主人は笑う。
そんな主人は、昨日はとある電話に怒る怒る。
胃痙攣で朝に出勤の途中で舞い戻り、痛い痛いと部屋でのたうち回っているなか、明日は仕事来れますか、これはどうしたらいいですか、こんな状況なんですけど原因はなんですか、どうやったらいいですか・・・何本も電話が入ってくるのはみんな職人さん。
主人も職人何十年とやってきているけれど、答えが出せないケースもある、客と折り合ったり、メーカーに訊ねて解決法を模索することは多々ある。
なのに、昨日の電話のやりとりの様子からは、胃痙攣で具合が悪いんだと散々言っているのにも関わらず、答えを出してくれないと困るんだと言わんばかりに電話を切らないで一時間あまり。
最後にはとうとう、上にはこう言って、メーカーにはこう言って、御客にはこう対応して、と主人が手取り足取りレクチャーしてあげて、やっと電話を切ることができたのだが、「誰も俺を休ませてくれねえ!」とキレていた。
みんな一端の職人のはずなんだけどな。
俺はグーグルじゃねぇ、そりゃごもっとも。
専門家に解説してもらいます、というあのテレビ番組の下りもそう、安易に、答えは存在すると思っているが故に、簡単に人に聞けばわかるという行動が蔓延しているな、そう感じている。
先の、店員さんに訊ねるが如く。