突っ込みたくはならなくても、
心に響きます。。。
□□□□□□はじめに□□□□□□
先日、『桃色つるべ〜お次の方どうぞ〜』(関テレ・フジテレビ系)を観ていて考えた事。
『桃色つるべ〜お次の方どうぞ〜』は笑福亭鶴瓶さんとももいろクローバーZのトークバラエティ。
その時のゲストは糸井重里さんでした。(ちなみに関テレでは昨年の11/30、12/7放送)
糸井さんがももクロのライヴに行った話やコピーライターとしての言葉の話などが、
2週にわたって話されたのですが、、、
□□□□□□○○が足りない□□□□□□
糸井さんがももクロを評する言葉を聞いていて、
鶴瓶さんは、自分が糸井さんに言われたという印象的な言葉を思い出しました。
糸井さんが鶴瓶さんにしばらく会っていなかった事を表現したその言葉が、
「『べぇ』が足りない」。
こう言われて嬉しかった鶴瓶さんは、
ラジオ?か何かで話した事があるそうで、
ファンの人からも言われたりするそうです。
なんか使いたくなる表現ですよね。
例えば、同じような表現で、
「愛が足りない」
って表現が歌詞などにありますよね。
検索してみるとたくさんでてきますが、
例えば「モーニング娘。」の「ハッピーサマーウェディング」の歌詞にも出てきます。
歌や小説のタイトル、歌詞の一部として「愛が足りない」とあっても、
特に何の違和感も感じないでしょう。
でも、この表現だけを取り出してみると、
ちょっと不自然な表現ですよね。
形や質量を持たず、計測できる物理的な量が無い抽象名詞である「愛」を、
「足りない」と物理的な量が不足するかのように表現するのはミスマッチ。
こういう表現方法を何というのかは知りませんが、
そのミスマッチの不自然さに魅力があるように思います。
「お金が足りない」とか、
「水が足りない」とは違います。
□□□□□『べぇ』が足りない□□□□□
「『べぇ』が足りない」の『べぇ』は、
直接的には笑福亭鶴瓶という個人。
増える事も減る事も無い一個人には物理的な量の過不足などありませんね。
会う回数、テレビで見る回数、接触する頻度が少なかった事を「足りない」と表現している訳ですが、
「増減するはずの無い固有名詞」と「足りない」とを直接つなげるところにミスマッチを感じます。
「ここのところ、鶴瓶さんにあまり会ってない」
「最近、鶴瓶さんのテレビ見てない」
「鶴瓶さんに会う回数が足りない」
では、印象に残ったりはしないでしょう。
「『べぇ』が足りない」には他にも、
「師匠」とも呼ばれる人にも拘わらずその人を雑に呼ぶとか、
雑に呼んでいるにも拘わらず伝えているメッセージは親愛の情である、
…などのギャップも感じられます。
□□□□□□句点□□□□□□
番組中の糸井さんの紹介で、
過去に作った広告のキャッチコピーが紹介されていましたが、
実はスタジオジブリ作品のキャッチコピーも糸井さんが作っています。
ジブリ映画のキャッチコピーで、覚えているものありますか?
言われれば「あぁ、そういうのあった」って思うんですが、
キャッチコピーだけをしっかり記憶してる事ってあんまり無いですよね。
以下ウィキペディアから引用。
○「このへんないきものは まだ日本にいるのです。たぶん。」『となりのトトロ』
○「4歳と14歳で、生きようと思った」『火垂るの墓』
○「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」『魔女の宅急便』
○「私はワタシと旅にでる。」『おもひでぽろぽろ』
○「カッコイイとは、こういうことさ。」『紅の豚』
○「タヌキだってがんばってるんだよォ」『平成狸合戦ぽんぽこ』
○「好きなひとが、できました。」『耳をすませば』
○「生きろ。」『もののけ姫』
○「家内安全は、世界の願い。」『ホーホケキョ となりの山田くん』
○「トンネルのむこうは、不思議の町でした。」『千と千尋の神隠し』
○「猫になっても、いいんじゃないッ?」『猫の恩返し』
○「ふたりが暮らした。」『ハウルの動く城』
○「見えぬものこそ。」『ゲド戦記』
言われれば思い出すって感じでしょう。
その中でも、
印象的でキャッチコピーそのものを私が覚えていたのは、
『もののけ姫』の「生きろ。」。
まぁ、短いから覚えやすいっていうのもありますが。
【ちなみに、
タタラ場で助けたサンに「なぜ私を助けた!」と問われた瀕死のアシタカのセリフが、
「生きろ、そなたは美しい」。
この「生きろ、そなたは美しい。」全体がキャッチコピーとしている記事などもあるのですが、
私が覚えているのはポスターなどで見た「生きろ。」】
言葉としてはストレートです。
何の変化球も無さそう。
ただ私は、
最後の「。」にちょっとした違和感を感じます。
「。」は、糸井さんの他のコピーにも多く見られるもので、「生きろ。」だけの特徴ではありません。
ただ、もののけ姫のコピーでは特に印象的です。
「生きろ」という言葉は、
スゴく強いメッセージ。
そこに「。(句点)」一つあるだけで、
抑制が効いているように感じせん?
思わず口を衝いて出た衝動的な言葉ではなく、
心の奥から出た本心、素直な気持ちであると感じさせます。
「生きろ」という感情的で強い言葉と、
「。(句点)」の抑制との間にあるギャップに魅力があるんだと思います。
例えば、
「生きろ。」
じゃなくて、
「生きろ!」
だったらどうですか?
印象が全く違う、、、と言うか、、、
キャッチコピーとしてマヌケでしょう。
□□□□□□おわり□□□□□□
「『べぇ』が足りない」も、
「生きろ。」も、
その中にあるギャップを「笑いのフォーマット」として感受する訳ではないですよね。
「。」には気付いても、
具体的に、
「『!』じゃなくて『。』かい!」
って突っ込みたくなる訳ではないし、
「足りない」という表現にミスマッチを感じても、
「鶴瓶が足りないって何やねん!」
って突っ込みたくなる訳ではないですね。
呼び捨てにしていながら親愛の情を伝える事に、
「どっちやねん!」
と突っ込みたい訳でもない。
だから「笑い」ではない。
『べぇ』に対しては、ちょっと、
「『べぇ』って何やねん!」
って言いたいかな?
こういうちょっとしたギャップが、
これらの表現の魅力。
そういう本来くっ付かない言葉をくっ付ける事が出来るのが、
糸井さんのセンスなのかなと思います。
m(__)m
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