デヴィッド・ホーキンズ博士が発案した(※)意識レベルという概念は、これまでの地球上での発見のうちでも、最も重要なものの1つだと思う。これによって魂の進化レベルを数値で客観的に表現することが可能になったわけである。
※ 「発案する」というのは「高次元からインスピレーションを受け取る」に近い。
意識レベルについては以下の過去記事を参照していただきたい。
この意識レベルの概念によって、悟りについても色々なことが分かるのである。
例えば、「悟りには段階があるのか」というのは古くから議論があるテーマである。結論が明確になっておらず、悟りには段階がないという人もいれば、あるという人もいるし、何段階あるのかというのもさまざまな説がある。
ところが、意識のレベルを数値表現できることが分かったわけであるので、答えは一目瞭然である。「悟りには無限に段階がある」が答えとなる。覚者といっても、意識のレベルには色々あるのである。
悟りには無限に段階があることが判明したのであるが、もちろん、意識レベルの数値によっていくつかのグループに分類することも可能である。私が把握している悟りの段階のグループとしては、以下のようなものがある。
[700~820未満] 空性とワンネスを知的理解ではなく直接体験を通して知っている
[820~860未満] 全ての苦悩から解放されている(※)
[860~920未満] 悟りや真我を求める探究から解放されている
[920~970未満] 名前で呼ばれる個人として生きている感覚がほぼない
[970~1000以下] 個我という分離感が消えている
[1000超~6000以下] 4次元波動である
[6000超~18000以下] 5次元波動である
※ ただし、アセンションのプロセスにおいては、守護霊が当人から気・エネルギーを奪って無理矢理に苦しめる(地球の浄化のために)ので、「守護霊による操作がなければ」という話にはなる。
意識レベルの概念によって、ほかにも悟りに関して推察できることがある。
「あなたは突然悟らない」
これが今回のテーマである。
あくまでも推察なのであるが、意識レベルについての知識があれば、意識レベル300の人や400の人がある日突然悟ることはないように思えるわけである。段階を追って意識レベルが上昇してきた結果としてある日意識レベルが700に到達して悟りを開くのであって、一夜にして意識レベル300の人が突然変異して700になることはなさそうだなと分かるのである。
このような推察が得られたら、次はペンデュラムで確認するのが手順となる。
ここでの私の疑問は次のようなものである。
私が覚醒する直前、前日の意識レベルは699だった。そして、次の日、意識レベルが突然820に跳ね上がった。だから、意識レベルのギャップは121あるとも言えるが、意識レベル700という悟りに関してのゴールラインまでのギャップで言うと意識レベルの差はたったの1である。
どんな覚者でも、ある日までは非覚者であって、ある日悟りを開いて覚者になった。覚者になる前日の意識レベルの最低ラインはいくつだろうかというのが私の頭の中に生まれた疑問である。意識レベルがどのくらいあれば、一夜にして覚者になれる可能性があるのだろうかという話である。
※ 実際には寝ている間に覚醒するとは限らない。「一夜にして」は便利な慣用表現として使用しているだけである。
これをペンデュラムで調べた結果、最低ラインは650くらいとのことである。意識レベル650くらいだったのが一夜にして700またはそれ以上に到達した人がいるのだそうである。
ただし、これは稀な例だそうである。一番多いパターンは私のように前日まで699だったというパターン。ほかの例も色々あるのだが、現実的には680くらいはないと、一夜にして覚醒するのは厳しいというイメージだそうである。
もちろん、650という最低ラインや680という現実ラインはあくまでも過去の例の話なので、突然変異で意識レベル300の人が一夜にして覚醒する可能性が否定されたわけではない。しかし、そういったことを期待して覚醒への道を歩むことは、あまり賢くなさそうだということは明白であろう。私だってお奨めしない。
そういうことで、この記事で私が言いたいことは次のようなことになる。
●一歩一歩段階を踏まないと悟らない。あなたは突然悟らない。
●その人の意識レベルに応じた霊的修行をするのが良い。
●意識レベル300の人は400へ、400の人は500へ、500の人は600へ、600の人は700へ、覚者はアセンションへというのが表面的な世界における現実的な目標。
この文脈においては「悟りは目指すべきものではない」「努力は必要ない」などは却下である。
確かに、宇宙の創造主の視点から見れば、究極的に因果関係は存在しない。覚醒と霊的修行は無関係であるというのも一面の真理ではある。
しかし、見た目の世界において覚醒が起こる場合、ほとんどの場合で、表面的に霊的修行というものが発生するのである。霊的修行なしに覚醒するというのは稀なのである。ほぼ全ての場合において、「霊的修行をした結果として覚醒が起こったように見える」というのも事実であり、そのように見えるように宇宙はできているのである。
表面的に霊的修行や努力というものは発生する。覚者になるまでは、そういうものなのである。特に意識レベル400台、500台くらいの時期というのは「努力によって目に見える結果を得る」ということがテーマとしてあるように思われるし、それで良いのである。この人たちは覚者でもないし、まだ覚醒を現実的な視野に入れているわけでもない(あっても、まだ「憧れ」の段階)。
ともかく、魂の進化の段階、意識レベルの段階によって、表面的に発生する出来事も違うし、その時のテーマも違うのである。その段階に応じたことをやればよいのであって、意識レベル300の人に非二元を説いてもムダであり、理解できるはずがないということである。
ここで、意識レベルの数値とその段階での人生の典型的な状況の要約を過去記事「意識レベル」から引用する。
200未満 文盲、病気、栄養失調
200台 初等教育、単純労働
300台 中等教育、技術士、職人、教育者
400台 高度な教育、知的職業階級、管理職、科学者
500台 精神的な追求に没頭、リーダー
600台 平和、覚醒(※)
700以上 悟り
※ ここでの「覚醒」は元々の文献に出てきている通りの言葉を使用しただけであって、通常の悟りを開くという意味での覚醒ではなく、「目覚め」という感じである。
それぞれの段階に応じた霊的修行やそれに類すること、テーマなどを書いてみたい。
■意識レベル300台
意識レベル500未満では通常の意味での霊的修行はほぼ発生しない。なぜなら、物理世界のみに生きている段階だからである。この段階でやることは霊的修行とも言わないということである。
だから、悟りに向けて何かできることがあるとすれば、「目に見えない世界に興味を持つ」ことくらいである。
パワースポットに興味を持つとか、パワーストーンに興味を持つとかでもよい。あるいは、最近では神様がキャラクターとして出てくるゲームとかがあるらしいので、そういったものに興味を持つとかでもよい。
意識レベル400台に上がることが現実的な目標であるので、その人たちに憧れ、その人たちのようになれるように努力することがテーマである。
平均的に考えれば、意識レベル400台の人たちの方が社会の中で結果を出すための努力をしている。400台の人たちの方がマナーが良く、他人に配慮できる。経済的に裕福な人といのは、そのかなりの割合が意識レベル400台の人である。
自分もそんな人間になりたいと願い、そのための努力をするのが、ここでの主要なテーマである。だから、この段階では社会的な成功者に憧れを持つのは悪いことではない。
■意識レベル400台
この人達は、社会の中で努力しており、結果を出しており、洗練されている。表面的なマナーは全般的には良く、ある程度他人に配慮できる。
ただし、世間的、社会的な観念に支配されている。そのため、世間的に良いとされていることを良いと思い、その価値観に従って自分の世界が出来上がっている。
だから、覚者から見れば偽善的な面も持ち合わせている。ボランティア、各種の社会貢献活動、寄付などを行ったりするが、その大部分は覚者から見れば偽善的な行為であり、「社会で良いとされている、社会的に称賛されるべき行為」を行っている段階である。
そして、まだ目に見えない世界の探求に進んでいない。
従って、この段階でも悟りに向けてできることというのは、「目に見えない世界に興味を持つ」ということである。そして、意識レベル300台の場合との違いがあるとすれば、今度は意識レベル500というスピリチュアルの世界に入るための高い壁を突破しなければならないという点である。
この人達は社会的にある程度成功していたり、裕福であったりする場合が多いし、それが過去の価値観であったわけだが、その自分が大切にしてきた価値観をかなり破壊しないとスピリチュアルの世界には入っていけない。
とは言え、成功者や裕福な人というのは、信心深い人や、不思議なことを信じる人も多い。平均的な人よりも風水などを信じていたり、契約日に最適な日を選んだり、神社に定期的に参拝する習慣が付いていたりする。神社巡りを始めるタイミングとしても良いかもしれない。
最終的に、表面的な世界、物理世界が全てではないという確信を持てれば次のレベルに上がれるだろう。
■意識レベル500台
一般的な「スピリチュアルな人」の段階である。もう、物理世界が全てではないということは理解している。
この段階での悟りに向けた努力の大半は、「スピリチュアルな知識・技術を身に付ける」である。
スピリチュアルについての書籍やブログ等をとにかく大量に読んで知識を身に付ける。セミナーに出て知識・技術を身に付ける。
特に女性に多く見られるのであるが、スピリチュアルに関してさまざまな分野での資格を取得するのも、この段階では悪いことではない。
ヒーリング、カラーセラピー、パワーストーン、気功・レイキ、タロット、占星術、吉方位、フラワーレメディなどなど、多岐にわたる分野からいくつか自分の好きなものを深く掘り下げて学びつつ、広い範囲についてベーシックな知識を身に付ける。
この段階を卒業して次に進むためには、最後には悟りについて興味を持つ必要がある。悟りは趣味のスピリチュアルの延長線上にはないことを理解して、はっきり「悟り」を目指すと自分に宣言する必要がある。
■意識レベル600台
悟りの一歩手前であり、悟りを現実的な目標として捉えている段階である。
だから、本当の意味での霊的修行という言葉は、この段階の人に対して使用するのがふさわしい。
瞑想を始めるタイミングとして最適なように思われる。これ以前に瞑想を始めても雑念だらけで効果が薄いし、一方では、多くの場合に悟りには何らかの瞑想が必要となることが多いからである。瞑想のほかにも、悟りに関して、本筋で直線的な霊的修行を行うタイミングである。
なお、霊的修行として何を行ったのか、私のケースについて記述したのが過去記事の「覚醒に向けた意識レベルの向上のために」シリーズであるので、必要に応じて参照していただきたい。また、電子書籍「シリウスの王子様が語る 悟りへの道、アセンションへの道」にも詳しく書かれている。
そして、もう1つのテーマは非二元の理解である。やっと非二元が理解できる段階になったということであり、各種書籍で知的に理解すると同時に、自分の人生の中でそれを体感して深い理解に昇華させていく必要がある。
知的理解だけでは覚醒しないので、自分の人生の中での体験が重要になってくる。そして、それは一人一人異なるものであるので、最終的には独り立ちしなければならない。最後は覚醒への道を一人で歩むのである。人生の体験を叡智に昇華させ、独り立ちして、初めて覚者である。「セミナー受講生」「生徒さん」と「覚者」の違いを理解しなければならない。
意識レベル500台では色々なセミナーを受講して修了証を集めることも学習のうちでよいのだが、覚者になる段階では、それは全く意味を成さない。修了証を集めている段階では、どこまで行っても「生徒さん」である。自分の体験から得た叡智を他者に教えられるようになって、初めて覚者と言えるのである。
以上のように、各段階に応じてテーマがあり、その時にやるべきことは異なる。だから、悟りやスピリチュアルに関するメッセージというのは「誰に対して」というのが非常に重要なのである。
例えば、「努力は必要ない」。これは誰に対するメッセージなのだろうか。
万人に向けてのメッセージではないことを理解する必要がある。覚者には「努力は必要ない」。また、覚者を目指す段階ではそれを理解する必要もある。しかし、意識レベル300台の人には努力をすることをお奨めする。意識レベル400台の人たちに憧れ、努力によって目に見える結果を出すことを覚える段階である。意識レベル400台の人は実際に社会的な努力によって結果を出す楽しみを味わっている段階であり、意識レベル500台の人はそれに加えてスピリチュアル的な努力をしている段階である。
もちろん、努力というのは、するもしないもその人の自由である。ただ、その人たちが望んでいることから考えれば、努力することをお奨めするというだけである。この段階の人たちが努力することなしに一足飛びに覚者になったり、さまざまな自由を楽しめるようになるようなことは考えにくいと言っているだけである。
非二元のメッセージにしても、それが意味を持つのは覚醒直前の段階の人たちに限られる。その段階になって初めて理解ができるものなのであり、その準備ができていない段階の人たちに繰り返し説いてみても、分かったような分からないような状態がずっと続くだけであり、この段階の人たちがある日突然悟ったという事例は過去にないのである。
スピリチュアルの世界では、色々な人が色々なメッセージを発信しており、一見お互いに矛盾するように見える複数のメッセージも存在するのだが、それは本質的にメッセージの対象者が異なるということも理由の1つである。メッセージの発信者も、メッセージの読み手も、お互いがこのことをより意識するようになれば、もっと考えが整理されてくると思う。
このブログの読者には覚醒を目指している段階の方も多いと思うのだが、自分の現在の段階に応じた霊的修行や学習等をしていただきたいと思う。
ここでは意識レベル帯を意識レベルの数値100ごとにざっくり分類したが、その意識レベル帯の下限に近い場合と上限に近い場合では、状況が違ってくる。上限に近ければ、そろそろその意識レベル帯を卒業するにはどうしたらよいのかを真剣に考えてみたらよい。
また、悟りやスピリチュアルについての指導的な立場にいる方には、今回の記事の内容を問題提起と考えていただき、対象者の意識レベルを考慮した説明や指導法をしてみてはいかがだろうかと思うのである。
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