EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

令和6年4月、私達の散歩道 桜散りはじめました

2024年04月13日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

令和6年も私が散歩する道の「ソメイヨシの桜」は元気よく咲きました。

今年は、天候不順で特に寒暖の差が激しく、絶好の散歩日和が少なかった。

今年の画像は、何時もの一眼レフカメラでなく、スマホのカメラで撮りました。

撮影は、令和6年4月12日で満開は少し過ぎちらほら散りはじめていました。

側を流れる川附川には、さくら花筏になっていました。

 

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秋山眞之生誕156年 生誕祭 開催される

2024年04月06日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

画像は、令和6年3月20日、松山市歩行町二丁目3番地6・秋山兄弟生誕地(公益財団法人・常盤同郷会) 武道場で開催された 秋山淳五郎眞之生誕156年 生誕祭の様子です。

秋山眞之生誕156年生誕祭 開催 次第

                  記

1、開催日時  令和 6年3月20日(春分の日)午前 9時30分 式典

2、場  所  松山市歩行町二丁目3番地6

        秋山兄弟生誕地 (公益財団法人・常盤同郷会) 武道場

3、開催内容と時間

  第1部 式典次第

        秋山眞之156年祭(慶応4年3月20日生)生誕祭式典

     ・国歌君が代斉唱

     ・来賓祝辞(愛媛県知事・松山市長)

     ・献茶(秋山眞之の像へ)

     ・献奏 正派邦楽大師範箏「佐川雅貴社中」の琴演奏

     ・令和5年度常盤同郷会受賞者スピーチ(県立内子高校小田分校・城戸 花さん)

     ・高校総文化祭放送部門ビデオメッセージ(新田高校・二宮 快地さん)

     ・全国高校弁論大会入賞者(県立松山東高校・谷村 琉凪さん)

     ・茶会 伊豫売流天山会:煎茶(立札式)

4,秋山眞之156年祭にご臨席頂きました皆様方

     ・秋山眞之 令孫 秋山崇 様

     ・山下亀三郎翁令孫 山下洋二郎 様

     ・松山市立子規記念博物館 館長 大石和可子 様

     ・ロシア兵墓地保存会会長 菅田顕 様

     ・松山子規会 会長 烏谷照雄 様

     ・愛媛県立松山東高等学校 校長 沖田浩史 様

     ・愛媛県立松山北高等学校 校長 友澤義弘 様

     ・愛媛県立吉田高等学校 校長 村井浩昭 様

     ・愛媛県立内子高等学校 校長 和田俊之 様

     ・愛媛大学付属中学校 校長 大西義浩 様

     ・松山市教育研修センター事務所長 光岡葉子 様

     ・松山市立勝山中学校長 八木誠一 様

 

午前10時45分 式典閉会

第2部 茶会・琴演奏会

 午前11時から茶会開始

一同起立して国歌斉唱

秋山眞之生誕156年祭合同生誕祭 開催に先立ち国歌君が代を斉唱し生誕祭は始まった。

生誕祭開式に当たり、主催者である、公益財団法人 常盤同郷会理事長 山崎 薫氏が開式の言葉を述べる。

 眞之は日露戦争(明治37年~38年)の日本海海戦で連合艦隊の参謀を務めるなどした。生誕祭は眞之や兄・好古の功績を後世に語り継ぎ顕彰していく活動も常盤同郷会の使命の一つであると、山崎薫理事長は挨拶された。そして現在の常盤同郷会は、松山同郷会と江戸末期に旧松山藩主である久松定謨が設立した常盤会、明治20年東京都真砂町に常盤学舎を創設された。秋山眞之は海軍兵学校在籍時代、薩摩の「郷中教育」を視察に行き松山に創設した組織が「松山同郷会」で、昭和28年あることを語った。常盤会と松山同郷会を併せて「常盤同郷」となり現在に至っている事も併せて挨拶をした。

続いて

中村時広愛媛県知事代理出席の、愛媛県スポーツ文化部文化局長・森居基修様が中村知事の祝辞を代読され挨拶された。

続いて

野志克人松山市長代理、松山市立坂の上の雲ミユージアム 石丸耕一館長さんがご自分の挨拶と、野志克人松山市長の祝辞を代読された。

続いて東京在住の

秋山眞之の令孫である、秋山崇さんが挨拶され、毎年眞之の生誕祭を開催して頂き感謝いたしておりますと述べられた。

続いて

秋山眞之生の親友であった 山下亀三郎翁令孫 山下洋二郎氏(東京都在住)が挨拶。

続いて

秋山 眞之に対して献茶。

献茶をするのは、常盤同郷会理事・藤島寛昌氏です。

献奏:春の曲を献奏。

正派邦楽会 佐川雅貴社中 山口真那さん演奏。

眞之記念青少年スピーチ

令和5年度常盤同郷会賞受賞者 愛媛県立内子高等学校小田分校3年 城戸 花さん。

愛媛県高校総文祭放送部門ビデオメッセージ

「祝祭の灯―興居島 船踊 新田高等学校 二宮 快地君

発表をする 新田高等学校 二宮 快地君

全国高校弁論大会入賞者の弁論「ディベートは世界を変える」

愛媛県立松山東高等学校3年 谷村 琉凪 さん

関係者一同の記念写真撮影で第1部 式典終了した。

第1部 式典も終了し、第2部の茶会が始まった。

茶会は、伊豫売流天山会 様主宰で行われた。

 

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私の散歩道にも春の気配 

2024年02月13日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

菜の花の中に「水仙」が咲いていた。

令和になって6年、春の気配を感ずる季節到来である。

今年は、年明け早々能登半島に激震が襲った。毎日能登半島の復興度合いをTVで見ているが作業の進捗が遅い。もっと大掛かりな作業は出来ないのか苛立たしさを感じる。

そんな事を思いながら、私の散歩道の川附川堤防には、日増しに菜の花が元気よく地表に現れ花を咲かせている。

帰宅し暦を見ると立春(2月4日)を迎えていた。

立春を過ぎた頃から少しずつ、太陽の高度が上がり、昼間の時間が長くなる。

光の春・音の春・気温の春、植物も動物も日本列島各地で動き始める。

光の春­=気温が上昇して光に反応して冬眠から目覚める。

音の春=川のせせらぎの音、鳥の鳴き声、雪国では雪解けの音が聞こえる。

気温の春=春分をすぎる頃から「暑さ寒さも彼岸まで」のたとえの通りに、気温も上昇して一番いい季節に移

行していく。四季のはっきりしている日本は素晴らしい・・地震がなければであるが!!。

画像は、3年振りにカメラ持参で何時もの散歩道を歩きシャッターを押してみた。

私の散歩道の川附川堤防には、日増しに菜の花が元気よく地表に現れ花を咲かせ散歩をする人達を楽しませてくれる。皆さんスマホで写真を撮ている。

菜の花の写真を撮りながら「あなた達はすごい感覚の持ち主ですね!!」「地表が暖かくなると冬眠から目覚め、芽を吹き、葉っぱを形成し、花を咲かせる。そして人々の気持ちを浄化させてくれる。ありがとう、いい構図の写真が撮れないけれどごめんね・・と心の中で呟きながらシャッターを押した。

菜の花を見ながらサイクリングを楽しむ人も。

近くに病院があり、リハビリの先生とリハビリを兼ねて屋外で運動する人。

気持ちも晴れやかになる。

直ぐ側には伊丹十三記念館もある。

左奥の樹々は、天山です。

伊丹十三記念館の庭に咲いていた「雪柳・ユキヤナギ」

散歩道沿線の家の庭に沢山の「キンカン」があった。

別の家庭に「山茶花」が元気よく咲いていた。

我が家の山茶花は、昨年夏場に水を与えなかったので今年は一輪も咲いてない。木が弱っている。悪いことをした。

「菅原公御腰掛石」とその記念石碑。

菅原道真が今治市桜井の「綱敷天神」から、松山市久保田町の「履脱天神」に行く途中、暫しの休息をしたと言う菅道真腰掛けの石で、星岡古戦場跡の一角にある。

私が散歩をする付近は、歴史上に出てくる所が沢山あり、歴史好きの人達には絶好の散策地である。

以前、奈良県から天山の歴史散策に訪れた人に出くわし、ご案内をしたことがあった。

「天山」は、記紀に出て来る山で、奈良県橿原市の「天香久山」と愛媛県松山市天山町の「天山」、は姉妹の山で、両町の皆さんが交流を記念して建立された石碑が天山山頂にある。

また、天山は、加藤嘉明が松山城築城に際し1番候補地として徳川家康に許可申請をした山で、2番候補地が「勝山・現在の松山城」3番候補地が「御幸寺山、愛媛県護国神社の裏山」。当時家康は、2番候補地に築城許可が下りていたので「嘉明が築城したかった勝山を2番候補地にした・・との逸話がある。

天山山頂から望む「松山城」

散歩道の川は「川附川」といいますが、鳥がやってきて「水浴び」をしていました。

教科書に出てくる「蒙古襲来の時、博多湾で、河野の後築地」と呼ばれ、有名な河野通有の居城であった「縦淵城跡」も近くにあります。

縦淵城跡の説明板。

鎌倉幕府終焉の切っ掛けとなった「星岡古戦場跡」も近くにある。

星岡古戦場跡とは、鎌倉時代の末期幕府の力が弱まってきたころ、後醍醐天皇はもう一度、天皇が政治を行なう為に実権を取りもどそうと討幕を計画し王政復古の戦いである。

明治17年5月、陸軍中将仙波太郎が発起人となり建立した星岡古戦場山頂にある「星岡表忠之碑」、当時仙波太郎は陸軍中尉であった。

私が散歩をする付近を上空から見るとこのような図式になる。

加藤嘉明が松山城築城の時、1番候補地(天山)を徳川家康に申請したが、もしも天山に許可が下りていれば、我が家周辺は松山の城下町になっていた。

 

 

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秋山好古生誕165年祭開催

2024年01月15日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

秋山信三郎好古生誕165年祭で挨拶をされる「秋山好古令曽孫 秋山 健」様

(画像は、令和6年1月9日、常盤同郷会提供)

地元紙「愛媛新聞」秋山好古生誕165年祭 開催記事。

 

令和6年1月8日、松山市歩行町二丁目3番地6・秋山兄弟生誕地・公益財団法人常盤同郷会 武道場で開催された 秋山信三郎好古生誕165年生誕祭の様子です。

何時もなら、私は、記録写真係として参加しておりますが、今回は体調を崩し参加出来ておりません。これからの画像は、秋山好古生誕160年祭の時の画像を掲載いたしております。(平成31年1月6日私が撮影)

 

                                  秋山好古生誕165年祭 開催 次第

                  記

式次第

1、開催日時  令和 6年1月8日 午前 9時30分 式典

2、場  所  松山市歩行町二丁目3番地6

        秋山兄弟生誕地 (公益財団)常盤同郷会 武道場

3、開催内容と時間

        秋山好古165年祭(安政6年1月 7日生)

        生誕祭式典次第

4,開式の辞

5,国歌斉唱  国旗に注目・君が代斉唱

6,主催者挨拶 公益財団法人常盤同郷会 理事長 山崎 薫

7,来賓祝辞  愛媛県知事代理 県観光スポーツ文化部スポーツ局長 江里 寿樹 様

        松山市長代理 坂の上の雲まちづくり部長 家串 正治 様

        秋山好古令曽孫 秋山 健 様

8,記念談話  ロシア兵墓地保存清掃の今日的意義 菅田 顕 様

        勝山中学校のロシア兵墓地奉仕活動への取組について

             松山市立勝山中学校2年 中村 凛胡さん

        常盤同郷会賞 受賞者スピーチ(令和3年度受賞:現20歳)

             愛媛医療センター付属看護学校2年 福島 麻央さん

        常盤学舎OBスピーチ

             愛媛県立松山北高等学校新任教諭 菊池 祐児さん

9,来賓紹介

10、鏡開き

11、秋山兄弟武道場 柔道部・合気道部 稽古始奉納

12、閉式の辞

祝賀餅つき大会(秋山兄弟生誕地の庭で)

 餅つき杵つき始:来賓の希望者・一般参加の希望・合気道部員希望者・柔道部員希望者が餅をつき参加者全員に餅5個を袋に入れて配布しました。

(秋山好古165年祭 式次第等資料は常盤同郷会事務局からの提供です。)

これから掲載する画像は、平成31年1月6日開催した秋山好古生誕祭160年祭の時の画像です。

(平成31年1月6日私が撮影)

秋山兄弟生誕地正面入口。(画像は、平成31年1月6日 開催160年祭の時)

主催者挨拶:公益財団法人常盤同郷会 理事長 山崎 薫

秋山好古生誕祭(画像は、平成31年1月6日 開催160年祭の時)

ご挨拶をされる、中村時広愛媛県知事(画像は、平成31年1月6日 開催160年祭の時)

中村時広愛媛県知事は、松山市長時代「小説・坂の上の雲」を基軸としたまちづくりを構築され、それを野志松山市長が継承され観光地「坂の上の雲松山」として全国にその名を轟かせた。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」が、平成21年11月29日から平成23年12月25日3年間に渡って放映され、松山の街は賑わった。・・その仕掛け人が中村時広愛媛県知事で、「この壮大な物語は、伊予・松山から始まる。」・・であった。

視聴者からの強い要望で、秋山兄弟生誕地が中心となり、再放送の署名運動が行われ、平成26年10月5日(日)~平成27年3月29日(日)毎週日曜日正午~45分間全26回、BSプレミアムで再放送された。

ご挨拶をされる、野志克仁松山市長様

秋山信三郎好古生誕祭(画像は、平成31年1月6日 開催160年祭の時)

祝賀餅つき大会。

秋山信三郎好古生誕祭(画像は、平成31年1月6日 開催160年祭の時)

祝賀餅つき大会。

秋山兄弟生誕地研究員・合気道・柔道部父兄会の皆さんが餅に仕上げる。

秋山好古生誕祭(画像は、平成31年1月6日 開催160年祭の時)

大勢の参加者で祝賀餅つき大会は行われた。(秋山兄弟生誕地の庭で)

秋山好古生誕祭(画像は、平成31年1月6日 開催160年祭の時)

視聴者からの強い要望で、秋山兄弟生誕地が中心となり、再放送の署名運動が行われ、3万人を超える署名簿を添付してNHK松山放送局に「NHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送」の陳情した時の写真。

右から、竹田祥一愛媛県議会議員・野志克仁松山市長・中村時広愛媛県知事・宮村泰司NHK松山放送局副局長・平松昇公益財団法人常盤同郷会理事長・宇都宮良治同常務理事。

秋山兄弟生誕地に、再放送決定速報がNHK松山放送局から届き速報でこの事を掲示した。

地元新聞も速報で記事を出した。

松山市の商店街では、各店舗ごとにポスターを掲げ祝った。

松山市の商店街では、各店舗ごとにポスターを掲げ祝った。

 

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令和に改元され早くも6年、新しい年を迎えて 初詣

2024年01月11日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

神社の社号額・石碑の文字全て三輪田米山揮毫です。

神社入口に、大きな注連(しめ)石(いし)と社号碑があり左に「魚躍」右が「鳥舞」で、書道家三輪田米山の揮毫で、米山は、日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男、名は「常貞」で号を「米山」と称しました。

社号碑「県社日尾八幡大神」・注連石に「鳥舞」「魚躍」は明治13年10月、米山60歳の時の揮毫で、書家米山の切っ掛けとなった代表の書「鳥舞・魚踊」です。

日尾八幡神社前には、後藤酒造「久米の井」があった。(一昨年3月で酒造業から撤退)此処によく行き酒を飲んでは揮毫していたそうです。

日尾八幡神社周辺の神社の社号碑や注連石は米山が揮毫した碑が沢山あります。
明治時代の軍人で、陸軍の三太郎と言われた一人に「仙波 太郎・中将」がいたが、現在の松山市福音寺町の出身で、三輪田米山塾で教えを受けたそうです。

※ 陸軍の三太郎とは、宇都宮 太郎(陸軍大将)・桂 太郎(第11代内閣総理大臣)・仙波 太郎(陸軍中将・衆議院議員)です。

なお、日尾八幡大神の楼門の「社号額」の揮毫は、三輪田米山です。

1月2日午後、我が家の氏神様である日尾八幡神社に初詣に行って来ました。

例年は、1月3日箱根駅伝の総合優勝を確認して初詣に行くのが私の行動ですが、1月3日は、降雨予報が出ていたので2日に行きました。

私の正月の過ごし方は、例年通りで、元旦は、実業団駅伝、2日・3日は、関東大学箱根駅伝をTV観戦して総合優勝を確認して、3日の午後3時頃日尾八幡神社に初詣に行きますが、今年の3日は午後雨天の天気予報でしたので、本年は2日関東大学箱根駅伝往路の結果をTV観戦し終えてからお参りに行きました。

1月2日は画像の通りいい天気でした。

この日、松山の外気温は14、1度でした。(我が家で測定)

なお、愛媛県出身のランナー4人が力走、1区では、宮岡幸大選手、法政大学(宇和島東高)・同じく1区を走った巻田理空選手、神奈川大学(松山商業高)2区を走った梅崎蓮選手、東洋大学(宇和島東高)・4区では、久保昇陽選手、日本大学(松山商業高)各選手が懸命に走った。

               日尾八幡神社の楼門

氏神様である「日尾八幡神社」の所在は、松山市南久米町、旧国道11号線沿いに位置し、松山市小野地区・久米地区・石井地区の一部の氏子を祭事する神社です。

なお、日尾八幡大神の楼門の「社号額」の揮毫は、三輪田米山です。

私の中学時代の同級生が日尾八幡神社の娘さんで、現在は結婚し東京都杉並区に在住している。2年に一度開催していた中学の同期会には何時も出席してくれていました。

楼門に飾られた立派な大きな「注連縄(しめなわ)・門松・そして国旗(日章旗)」です。

近年各家庭では、国民の祝祭日に国旗を揚げて祝するという気概がなくなり、国旗を掲揚する家庭が激変しました。・・何故でしょうか?・・皆さん何故だと思われますか。

さーこれから158段の長い石段を上り拝殿に行きお参りをいたします。

158段の長い石段、中程から拝殿を望む。・・一休み!!

158段の長い石段の中程に、あまり知られてない小さな社があります。
それは「黒田霊社」です。

祭神は、黒田九兵衛霊

県社日尾八幡大神縁起に「黒田霊社の由来」の項があり次の様に伝えています。

黒田霊社の由来:

慶長5年9月15日関ヶ原の戦に伊豫国松前城主加藤嘉明は東軍に属し3,000人の将士を率いて美濃(関ヶ原)に進軍した。

その虚に乗じて西軍の雄、芸州毛利輝元は家臣、村上掃部、能島内匠、曽根兵庫、宍戸善右衛門等を将として松前城を襲わしめた。

芸軍凡そ三千余騎、百余艘の兵船に分乗して芸州軍は興居島に到り、さらに三津浜に上陸して民家に宿営したのが慶長5年9月18日のことで、伊予の関ヶ原と言われる激戦があった。
この時、松前城の城代、佃次郎兵衛十成はひそかに兵を率い夜に乗じて三津に押し寄せ民家に火を放して陣営を破り、大いに芸軍をなやまし敵将村上・曽根・能島らをはじめ数多の将士を打ち取ったが、残兵はなおも逃れて久米村如来院(現・松山市南久米町、日尾八幡神社直ぐ傍)に立てこもった。

これを追撃する佃十成の軍に黒田九兵衛という勇士がいた。

衆に抽んでて如来院に馳せ付け悪鬼の如き勢をもってその門を破り、うち出す弾雨の中を物ともせず門内に討ち入り、数多将兵を打ち取りなおも奮戦を続けるうち、惜しいかな敵弾を受け戦死をとげた。即ち予に言う久米の戦いである。
この豪勇の士、黒田九兵衛を祀った墳を黒田塚と呼び、里人が病を患い苦しむ時この塚に線香をたむけて祈れば必ず平癒すると言い、これを崇めて一社の神に祈ったのがこの黒田霊社である。

昭和35年4月刊行「日尾八幡大神縁起」より引用。

この戦いで、敗北していれば関ヶ原の戦いに東軍として戦い、武勲を挙げた加藤嘉明は帰る城がなかった。留守を守った城代、佃次郎兵衛十成に対し、嘉明は、松山城築城の際「北之郭」を造り之を与えこの功績に答えたのである。
松山城の北之郭は、佃次郎兵衛十成、一代だけの居住であった。

158段の長い石段を登り詰めると日尾八幡神社神の拝殿があります。

参拝される、日尾八幡神社の拝殿の様子で、今年は賽銭箱が新調されておりました。

「令和6年能登半島地震」でお亡くなりになられた方々のご冥福と、そして被災されました皆様方の一日も早いご復興と平穏な日々が訪れますように心からお祈りいたしました。

私に出来る事は限りがあり、微々たる事しか出来ませんが義援金等でご支援させて下さい。

拝殿右側に「役目を終えた昨年の御札の「納札所」が創られていました。

旧お札や注連飾りは、1月15日の小正月に火祭りとして行われる「どんど焼き」として神職が神社境内で行います。

拝殿左側、春日大社入口には、おみくじを頂く特設を設置、今年の正月も気温が高く好天で巫女さんも楽であっただろう!!ご苦労さまです。

おみくじを頂き、内容を確認して、おみくじを結んでいました。

楼門左には、大きな石碑「忠魂碑」が建立されています。

旧愛媛県温泉郡久米村から、日清・日露・大東亜戦争に出征され戦死された方々の慰霊碑です。

忠魂碑は、明治100年記念として昭和35年10月23日建立されました。

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