【七支刀】この不思議な形状とともに、そこに刻まれ金で飾られた銘文は、私たちに大きな謎を提示しています。
前記事で、石上神宮(いそのかみじんぐう)に伝わる七支刀(しちしとう)に刻まれた銘文の「太和四年」説の弱点を指摘してみました。以下の主要な3説のうちの(2)です。
(1)泰始四年(268年)説
(2)太和四年(369年)説
(3)泰始四年(468年)説
では、他の説はどうでしょうか。
(1)の「泰始四年」説については、まず、268年に百済という国が成立していたどうかに疑念があります。加えて、「百済本紀」には、近肖古王の治世まで百済では文字を用いて事柄を書き記すことがなかったという記述があります。だから、この説は論外だと思われます。
(3)の「泰始四年」説については、現在のところ否定する材料がありません。原日本紀年表では、468年は倭の五王のひとり「興(こう)」=允恭天皇の治世です。百済は蓋鹵王(がいろおう)の治世です。
ただ、『日本書紀』の記事には枕流王の名が出てきますから、少なくとも『日本書紀』の編纂者は468年を想定してはいなかったと思います。そういう意味では、(3)の「泰始四年」説については消極的な肯定ということになるでしょうか。
そこで、私は(1)(2)(3)の説ではない(4)「太元四年」説を考えてみたいと思います。
「太元」は晋の孝武帝の治世の元号です。西暦では376年から396年にあたります。太元4年は379年ということになります。(2)の説の太和4年の10年後です。
この「太元四年」説を考えたきっかけは、仲哀天皇の在位期間です。
原日本紀年表では、仲哀天皇は375年に即位され、21年間の治世ののち395年に崩御されます。この間には、『日本書紀』の神功皇后摂政紀の事績がすべて含まれています(表1)。
■表1 仲哀天皇の治世(原日本紀年表による)
百済の使者である久氐(くてい)による七支刀献上の記事も、仲哀天皇紀に含まれます。神功皇后の創作により、仲哀天皇紀の事績は大きく撹乱されていますが、この記事自体は仲哀天皇の治世にあったことだと考えているので、その時期の晋の元号を調べてみて「太元」がみつかりました。この「太元」は「太和」とほぼ同時期であるにもかかわらず、なぜ一つの説として取り上げられてこなかったのか不思議です。もちろん、これまでにどなたかが唱えられていた可能性はあると思いますが、現在の主だった書物では言及されていないのです。
(2)の「太和四年」説が通説となりえたのは、「泰」は「太」の仮借文字(発音の同じ別の文字を借りて表したもの)と考えられるという論考が認められているからです。そうであるならば、当然のことながら「泰□四年」を「太元四年」とする仮説も提示されてしかるべきだと思います。
「太元四年」説であれば、百済は近仇首王(きんきゅうしゅおう)の治世です。前王である近肖古王が晋の柵封体制に入った後ですから、七支刀に晋の年号を刻んだとしても不思議ではありません。
そして、百済は前王以前から高句麗との武力衝突を繰り返し、この時期、晋や倭と結んで高句麗に対して優位に立とうとしていました。
まさに太元4年(379年)の3月にも、晋へ使者を送ろうとしたと「百済本紀」が記しています。この時は、悪風にあったため晋にたどり着けずに帰ってきたようですが、改めて派遣したのは間違いないでしょう。中国側の史書『梁書』にも、太元年間に百済の王「須」が生口を献上したという記事がみえます。この「須」は近仇首王(貴須王(きすおう/くるすおう))のことだとされています。
当然、倭国にも使者と送ったと考えられます。それが久氐らであり、持参した献上品の中に七支刀があったのではないでしょうか。
「太元四年」説では、『日本書紀』の記事にある「孫の枕流王」のつじつまが合いません。枕流王は近仇首王にとっては孫ではなく子だからです。
これについては、『日本書紀』の紀年延長にあたって編纂者が、久氐らを送った百済王が近肖古王だという前提のもとに、枕流王を孫だとしたのではないかと思います。実際、『日本書紀』には誰が久氐らを送ったか記されていませんし、神功皇后の創作と紀年延長により、近肖古王の薨去(390年)が七支刀の献上(389年)より後になっています。『日本書紀』の設定上は、久氐らを送ったのは近肖古王でなくてはならず、必然的に枕流王は「孫」ということになるのです。
文脈上からも、久氐らを送った百済王が、自分の後を継ぐ子ではなく、将来王位につくかどうかわからない孫に、倭国の貴さを語って聞かせるというのも不自然な話だと思います。近仇首王が、自分の後を継ぐ子である枕流王に語るほうがより自然です。
以上、七支刀の「太元四年」説を検証してみました。通説の「太和四年」説よりも説得力があるといえば、言い過ぎでしょうか。
そして、「太元四年」説を採れば、七支刀は百済の近仇首王から仲哀天皇に献上されたものとなります。
ただし、「太元四年」説には銘文の2文字目が課題として残ります。
【銘文の2文字目】
*鈴木勉・河内國平編著『復元七支刀』(雄山閣2006)の口絵写真より石上神宮所蔵カラー写真を抜粋
一本の縦の線は禾(のぎへん)とみるのが通説となっています。それにより「泰始四年」説の立場も弱められています。「始」の文字にこの縦線はそぐわないというのがその理由です。当然ではありますが、銘文の刻線が最優先されるのです。
当時の「元」の文字がどのような字面だったのか、現在の私には確たる資料がありません。
しかし、その文字が2文字目に残った一本の線と合致するのかどうか、それがすべてを明らかにしてくれると思っています。(完)
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