「魏志倭人伝」後世改ざん説を時系列で検証する!〈1〉 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 私が提唱する「魏志倭人伝」後世改ざん説は、下記の赤字にした日数の部分に、陳寿(ちんじゅ)の原本では具体的な里数が記されていたと考えるものです。

 

南至投馬国 水行二十日

「(不彌国から)南へ、水行20日で投馬国へ至る」

 

南至邪馬台国 女王之所都 水行十日 陸行一月

「(投馬国から)南へ、水行10日、陸行一月で女王の都する邪馬台国へ至る」

 

 『邪馬台国は熊本にあった!』の中で、改ざんされた理由については詳細に考察したつもりです。日数部分に記されていたと思われる具体的な里数についても算出しました。

 できるだけわかりやすく説明したつもりなのですが、読者の方から「内容が少し難しい」というご意見をいただくこともありました。

 そこで今回は、原本から改ざんされて、現在私たちが目にする「魏志倭人伝」になった経緯(いきさつ)を時系列にそって説明できればと思います。

 

(1)陳寿の『三国志』「魏志倭人伝」ができるまで

 

 「魏志倭人伝」の原史料となったのは、240年に来倭した魏の使節である梯儁(ていしゅん)一行の報告書だと思われます。梯儁の使節は、238年に公孫氏滅亡と同時に行われた卑弥呼の朝貢に対して送られたものです。魏としては初の対倭国使節団ですから、金印紫綬(きんいんしじゅ)などの下賜品を届けるだけでなく、詳細な倭地調査が命じられていたはずです。

 卑弥呼を戴く女王国がどれほどの国力を持っていて、魏に対してどのような思惑を持っているのかなどを知りたかったと思います。反旗を翻す恐れがあれば、早急に対処しなければならないからです。

 

 貴重な下賜品を携えた梯儁一行は、最短距離で九州島をめざします。上陸地点は現在の唐津市にあった末盧国(まつらこく)です。上陸後は、倭地を踏査し、地図を作成しながら伊都国(いとこく)、奴国(なこく)、不彌国(ふみこく)の拠点集落を巡っていきます。

 目的地点は、当然のことながら卑弥呼の都がある邪馬台国です。封泥で封印された貴重な下賜品は、卑弥呼の目前でしか封印を解いてはいけないからです。「魏志倭人伝」の記述の中にも、倭王が下賜品を届けた梯儁たちに感謝の上表文を渡したと記されています。だから、梯儁たちが邪馬台国まで足を運んだのは間違いありません。当然のことながら、不彌国から投馬国を経由して邪馬台国に至る道里(一行の歩いた具体的な里数)を測っています。

 

 帰国後、皇帝に上表した復命報告書には、邪馬台国までの具体的な里数が記され、倭の国々の位置関係が描かれた地図が添付されていたはずです。

 私の考えるその具体的な里数とは、「南至投馬国 水行六百里」「南至邪馬台国 女王之所都 水行三百里 陸行四百里」です。この里数は、私が『邪馬台国は熊本にあった!』の中で導いたものです。これで、帯方郡から邪馬台国までの行程記述にあらわれる里数の合計は12000余里となります。

 この数字は、「魏志倭人伝」内の別箇所に記される「帯方郡から女王国(邪馬台国)までの道里を計ると12000余里である」という一文と合致します。加えて、また別箇所の「倭の地(狗邪韓国(くやかんこく)から邪馬台国まで)をめぐり歩くと5000余里でばかりであった」という記述の5000余里と、帯方郡(たいほうぐん)から狗邪韓国までの7000余里を足した計12000余里とも合っています。つまり、「魏志倭人伝」は帯方郡から邪馬台国までの距離について3か所で言及しているのですが、そのすべてが整合するわけです。

 

 さて、240年代に記されたであろうその報告書を原史料として、280年代に陳寿が「魏志倭人伝」を撰述します。

 陳寿の認識を図にしたのが、図1です。

 

◆図1 陳寿の倭地に対する認識

 

 陳寿は女王国(邪馬台国)の位置を、「会稽東治(かいけいとうち)」の東であると断言しています。それは、鹿児島県の鹿屋市辺りの緯度になります。熊本県と鹿児島県、九州の地図上で見ると少し離れているように思いますが、当時の中国から見ると誤差の範囲だったのではないかと考えます。

 このように、陳寿の頭の中では何の不都合もなく、倭地のイメージはできあがっていたのだと考えています。(続く)

 

▼▽▼邪馬台国論をお考えの方にぜひお読みいただきたい記事です

邪馬台国は文献上の存在である!

文献解釈上、邪馬台国畿内説が成立しない決定的な理由〈1〉~〈3〉

 

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総合オピニオンサイト「iRONNA」掲載の小論

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