「魏志倭人伝」後世改ざん説を時系列で検証する!〈2〉 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年法による日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。

 280年代に陳寿が『三国志』「魏志倭人伝」を完成させた後の経緯を考えます。

 

(2)空白の4世紀に突入する

 

 「魏志倭人伝」完成間もなく、時代は4世紀に入っていきますが、中国の文献から日本は姿を消してしまいます。「空白の4世紀」「謎の4世紀」などと呼ばれています。中国では華北が五胡十六国時代(304年〜439年)に突入し、多様な民族・国家が乱立しました。それが、華南で長く続いた東晋(317年〜420年)の記録にも日本のことが記されなかった原因かもしれません。

 具体的には、266年に邪馬台国の壹与が西晋に遣使した後、421年(413年説もありますが)に倭王讃(さん)が宋に遣使するまでが空白期間となっています。実に、150年以上の空白があるのです。

 

 当然のことながら、その期間にも『三国志』は写本を重ねられます。「魏志倭人伝」も幾度となく書き写されたことでしょう。しかし、それとは裏腹に、中国の人々の倭国に対する認識は非常に希薄なものになってしまいました。新しい情報がまったく入ってこなかったからです。この時期に、陳寿の想い描いていた明確な倭地のイメージは消え去ってしまったと考えてよいでしょう。

 

(3)宋の裴松之が注を付ける

 

 421年の讃の遣使以降、中国と日本の通交が再開されるわけですが、まもなくして「魏志倭人伝」にとって画期的な出来事が起きます。

 宋の文帝が、あまりにも簡潔な内容だった『三国志』に詳しい注を付けることを命じるのです。命じられたのは裴松之(はいしょうし)という史官です。

 裴松之は、陳寿の原文の文字数に匹敵するほど膨大な量の注釈(裴注といいます)を付けて、429年に文帝に奉ります。文帝は、これは素晴らしいと裴松之を誉めています。

 

 現在、私たちが目にする『三国志』「魏志倭人伝」は、この裴注の付いたものです。つまり、429年に『三国志』「魏志倭人伝」は裴注版として新たなスタートをきるのです。これから後、陳寿の『三国志』「魏志倭人伝」オリジナル版は書写されなくなり、歴史の流れの中に消えていくことになります。

 しかし、この429年の裴注版「魏志倭人伝」は陳寿の文章を忠実に守っていたと思われます。それは、現在の邪馬台国論争の原因となっている不明確な記述に注を付けていないからです。

 

 「魏志倭人伝」の部分には二つの注が見られます(図1)。

 

◆図1 「魏志倭人伝」の裴注

小さい文字で書かれているのが、裴松之の付けた注です。

 

 ひとつは、倭の習俗を記した部分に「『魏略』に曰く。倭人は正確な暦を持っておらず、春に種をまき秋に収穫するという大ざっぱな行いをもって一年というものを数えている」という主旨の『魏略』からの引用を記しています。裴松之の注には、軽く50種類を超える文献からの引用がみられます。

 

 もうひとつは卑弥呼への下賜品を記した部分に付けられています。「絳地(こうち)」は「絳綈(こうてい)」の誤りであろうとして、「絳地のままでは意味が通らない。そうなっているのは魏の王朝が詔を下した時点ですでに書き間違えていたのか、もしくは後世に書き写した人が間違えたのであろう」という裴松之自身の論評が記されています。つまり、誤字を指摘し、その原因を推測しているのです。

 

 このように、『三国志』に非常に事細かに注を付けた裴松之が、「魏志倭人伝」の部分では二つの注しか付していません。それは、「魏志倭人伝」の記述が理路整然としていて、注を付す必要がなかったからだと思います。

 たとえば、邪馬台国論争の原因となっている不彌国から投馬国への「二十日」、投馬国から邪馬台国への「十日」「一月」という日数が陳寿の原本に書かれていたとしたら、裴松之は間違いなく「ここが日数表記になっているのはこういう理由による」とか、「この日数は里数に換算すると何里になる」などという注を付けたはずなのです。

 

 また、唐突にあらわれる「帯方郡から女王国(邪馬台国)までは万二千余里である」という里数についても、先行文献などの出典を付すのではないでしょうか。それがないのは、その直前に語られる帯方郡から邪馬台国までの行程記述の合計里数が12000余里になっていたからだと推測できます。つまり、疑義を抱くことがなく、注を付す必要がなかったからだと思うのです。(続く)

 

▼▽▼邪馬台国論をお考えの方にぜひお読みいただきたい記事です

邪馬台国は文献上の存在である!

文献解釈上、邪馬台国畿内説が成立しない決定的な理由〈1〉~〈3〉

 

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