日数は「道里」ではない!〈2〉 裴秀による「道里」の定義 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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 前記事では、陳寿(ちんじゅ)が『三国志』撰述にあたって裴秀(はいしゅう)の『禹貢地域図(うこうちいきず)』を参照したはずだということを検証しました。そうすると、その序文で定義されている「道里(どうり)」という言葉を陳寿が使用する場合、その定義のもとに用いるのは明らかです。陳寿が同じ言葉をわざわざ別に定義し直す必然性はまったくないからです。

 

 では今回は、『禹貢地域図』序文で「道里」がどのように定義されているのかをみてみます。

 まず、『晋書』裴秀伝に引用された『禹貢地域図』序文の原文は以下です。

 

『晋書』巻三十五 列伝第五 裴秀より抜粋

 

(A)制図之体有六焉 一曰分率 所以弁広輪之度也 二曰準望 所以正彼此之体也 三曰道里 所以定所由之数也 四曰高下 五曰方邪 六曰迂直 此三者各因地而制宜 所以校夷険之異也

(B)有図象而無分率 則無以審遠近之差 有分率而無準望 雖得之於一隅 必失之於他方 有準望而無道里 則施於山海絶隔之地 不能以相通 有道里而無高下・方邪・迂直之校 則経路之数必与遠近之実相違 失準望之正矣 故以此六者参而考之 然〔後〕遠近之実定於分率 彼此之実〔定於準望 経路之実〕定於道里 度数之実定於高下・方邪・迂直之算 故雖有峻山鉅海之隔 絶域殊方之廻 登降詭曲之因 皆可得挙而定者 準望之法既正 則曲直遠近無所隠其形也

(弘中芳男『古地図と邪馬台国』大和書房1988より部分的に新字体に変換、句読点を改変のうえ引用/(A)(B)は筆者が挿入)

 

 裴秀は、前段(A)で精確な地図を作成するために考慮しなければならない6つの要素を挙げています。「制図六体(せいずろくたい)」とされる「分率」「準望」「道里」「高下」「方邪」「迂直」であり、その意味は図表1のようになります。

 

◆図表1 『禹貢地域図』序文の「制図六体」

 

 四(高下)、五(方邪)、六(迂直)は、それぞれの土地や道によって異なる特徴です。精確な地図を作るには、一(分率=縮尺)、二(準望=方位)、三(道里=距離)の要素を、四、五、六によって求められる土地や道の難易度(険しさ具合)で較正しなければならないと説いています。

 

 そして、後段(B)でそれら6つの要素の関連性と、それを用いた具体的な地図作成法を述べています。弘中芳男氏や清朝の学者胡渭(こい)の解釈を参考に私なりに訳すると以下のようになります。

 まず、それぞれの必要性について、4つの事例をあげて説明しています。

 

(1)図象(描かれた図)があっても縮尺がわからなければ、どれほど広い地域を描いたものかわからない。

(2)縮尺が正しくても方位がわからなければ、A地点からみてB地点がどこにあるのか正しく示すことはできない。

(3)方位がわかっていても道里(道のりの距離)がわからなければ、山や海で隔てられた遠方の地を描けてもどのように道が通じているのかを表すことができない。

(4)道里(道のりの距離)がわかっていても道中の「高下」「方邪」「迂直」を調べて較正しなければ、経路の里数とそれを用いて求められた2地点間の遠近(直線距離)は整合せず、正しい方位からもずれてしまう。

 

 以上の4つの例示から、以下のように結論づけます。

 

だから、地図を作成するには6つの要素を集めて考えなければならない。

そうすれば、正しい遠近が縮尺上に定まり、地図上の2つの地点が正しい方位で示され、道のりの里数で正しい径路が表され、度数の実(道のりの難易度?)は高下・方邪・迂直を算定して決められる。だから、急峻な山や広い海の隔たりや、絶域で異なる方向へ廻り込む迂回路、登り降りが激しく迷いそうに曲がりくねった道があったとしても、すべてを地図上に確定させることが可能となるのである。方位は正しく、曲直や遠近はありのままの形を隠すことなく明らかになる。

 

 以上、裴秀の『禹貢地域図』序文に書かれた制図六体の内容をみてきました。

 

 さて、問題の「道里」はどのように記されていたでしょう。

 ここでは明らかに「道のりの里数」であると定義されています。

 前出の学者胡渭は『禹貢錐指(うこうすいし)』の中で制図六体に非常に分りやすい解釈を加えていますが、「道里」については次のように述べています。

 

道里者 人跡経由之路 自此至彼 里数若干之謂也

(対訳)道里は人跡経由の路のことにて、此処より彼処に至るに、里数如何程かの謂いなり。

(前出『古地図と邪馬台国』より部分的に新字体に変換、句読点を改変のうえ引用)

 

 つまり、「道里」はA地点からB地点まで、人が歩いた(進んだ)道のりのことであり、里数で表されるものなのです。

 決して「日数」で表されるものではありません。なぜなら、人によって進む距離がばらばらである「日数」を用いていては、精確な地図を作ることは不可能だからです。

 

 このように、陳寿が『三国志』を撰述する直前に完成して、名声を得た裴秀の『禹貢地域図』序文に「道里」は定義されているのです。地図制作という科学的な分野の方法論の中で厳密に定義されているのです。

 繰り返しになりますが、当然、陳寿はその地図を参考にし、序文に目を通しているはずです。だから、『三国志』内で用いられる「道里」については、『禹貢地域図』序文の「道里」と同じ定義のもとに使用されているはずなのです。

 

 ですから、今回の結論は以下となります。

 

 『三国志』内での「道里」は、「人が歩く(進む)道のり」のことであり、「日数」ではなく必ず「里数」で表されるものである。

(完)

 

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