『原日本紀』仮説〈1〉『日本書紀』の年代設定を知る | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 2020年のはじまりに、ある勉強会で「成立1300年! 『日本書紀』から古代史を考える」という題目の話をしました。

 内容は、(1)『原日本紀(げんにほんぎ)』の考え方、(2)初代天皇301年即位について、(3)七支刀(しちしとう)製造年にまつわる新説、(4)百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)の被葬者についてというものでした。

 今回から数回に分けて、(1)『原日本紀』の考え方について、まとめなおした記事を掲載したいと思います。

 

 『原日本紀』というのは、私が『ヤマト王権のはじまり』(扶桑社新書)の中で提唱した文献の名称です。私が命名したので、一般的な『日本書紀』関連書物や論文に言及されるようなものではありません。

 720年に完成し撰上される『日本書紀』の、一段階前の中間文書的な存在として私が想定した文献です。現在私たちが目にする『日本書紀』では、初期の天皇紀において大幅な紀年延長が行われていることは明白で、21世紀の現代では誰も疑う人はいないと思います。『原日本紀』はその紀年延長操作が行われる前に、編纂者たちがいったん精確にまとめた国史(歴史書)だったと考えています。

 

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 では、まずは『日本書紀』の設定する年代観からみていきます。

 『日本書紀』は、全30巻のうち第1巻と第2巻を「神代(かみよ)」という神話の時代にあてています。そこでは具体的な年次は記されません。「昔むかし・・・」といった趣といえばわかりやすいでしょうか。

 

 そして、第3巻から天皇の時代がはじまります。

 長い神代の時代のあとに、初代天皇である神武天皇(じんむてんのう)がいわゆる「神武東征(じんむとうせい)」を成し遂げて橿原宮(かしはらのみや)で即位されるのが、紀元前660年とされています。その後、第16代仁徳天皇までの即位年をまとめたのが図表1です。

 

■図表1 初期天皇の即位年

 

 この神武天皇即位の紀元前660年については、「讖緯説(しんいせつ)」との関連でよく語られます。これは、明治時代の東洋史学者である那珂通世(なかみちよ)が、『日本書紀』の紀年に讖緯説が影響を及ぼしていると論じたことにはじまると思います。讖緯説というのは古代中国の予言説の一つで、那珂通世が引用したのが辛酉の年には革命が起き(辛酉革命説)、21元(1元は60年/1260年)ごとに大革命が起きるという説です。

 この説はかなり浸透していると思いますが、異論も多くみられます。今では否定的な見解の方が強いかもしれません。

 この説の基準となる辛酉年は、西暦601年です。この年は推古天皇の治世9年にあたります。注目すべき記事としては、聖徳太子が斑鳩宮を造営したということぐらいでしょうか。特に革命的な物事が起こった気配もありません。

 「なぜ推古天皇即位年ではなく9年なのか?」「そもそも1260年にどれほどの根拠があるのか?」「辛酉年とすれば、661年の斉明天皇崩御や、『日本書紀』撰の翌年(721年/面白く考えれば藤原不比等の死の翌年とか)の方が基準年にふさわしいのではないか?」などを考慮すると、私も讖緯説によって神武天皇即位年が紀元前660年に設定されたという説には懐疑的にならざるをえません(ただし、301年という「辛酉年」を基準として神武天皇即位年をさかのぼらせていったとは考えています。ちょっとややこしいですが・・・)。

 

ともあれ、神武天皇に続いてそれぞれ父から子へと天皇位は引き継がれていきますが、第11代垂仁天皇までが紀元前の即位となっています。例えがおかしいかもしれませんが、イエスキリストの生誕より以前ということになります。

 ところで、紀元前660年というと縄文時代から弥生時代への過渡期にあたります(人によって弥生時代の始まる時期想定は前後します)。奈良時代に考古学の知見はないですから当時の人がその年代をどう見ていたかはわかりませんが、日本の歴史を学んだ現代人の私たちはそれを知っています。すると、紀元前660年の神武天皇即位はあり得ない話であるとわかります。

 

 次に、初期の天皇で特徴的なことは「長命で治世も長い」ということです。

 こちらも第16代仁徳天皇までの崩御された年齢と治世期間をまとめたのが図表2です。

 

■図表2 初期天皇の崩御年齢と治世期間

 

 このように初期の天皇は非常に長生きされます。100歳以上の天皇が並びます。第3代安寧天皇の57歳や第14代仲哀天皇の52歳が非常に短命にみえてしまうほどです。

 最長寿の第11代垂仁天皇の140歳などは人間の限界を明らかに超えているようにみえます。ちなみに世界の長寿記録は1997年に亡くなったフランスのジャンヌ・カルマンさんという女性で、享年122歳だったそうです。

 そして、図表2の天皇のつながりは成務天皇と仲哀天皇の間柄(叔父と甥)を除くとすべて父子継承となっています。それもあって、各天皇の治世も非常に長いものになっています。

 

 ではここで、次代の天皇が先代の何歳のときの子であるかをみてみると、

・第8代孝元天皇は第7代孝霊天皇が70歳のときの子

・第7代孝霊天皇は第6代孝安天皇が86歳のときの子

・第6代孝安天皇は第5代孝昭天皇が80歳のときの子

などとなります。

 普通に考えて、かなり無理のある設定がなされています。

 

 以上をまとめると、次のように結論付けられると思います。

・神武天皇即位の紀元前660年をはじめ、『日本書紀』が設定する初期天皇の即位年は日本史の時代区分からしてありえない

・初期天皇の寿命は生物学的にヒトの限界を超えている

∴『日本書紀』の初期天皇の年代については、紀年(年数)が意図的に延長されているのは明らかである

 

(つづく)

 

 

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