父母共に亡くなってから最初のお盆だ
私にしても初めて主としての新盆だ。 12日に新潟から弟夫婦がやってきて、近くに住む妹も
花をたくさん用意してきて、仏壇を飾ってくれた
14日は共同墓地(合肥廟)例祭が行われ、15日には盆のおつとめに、お寺さんが来てくれる
この町では、父が初めて住んだわけで当然、先祖代々の墓もなく、建てるか建てないかは父子の
課題であったが、孫が40近くになっても未婚なので、父は決断した
このままでは墓を建てても孫の代で無縁仏になる可能性が高い、それで共同墓地に入ることに
決めたのだった、そして自らこの会の2代目会長を引き受けて、質素な墓碑を新たにする案件が決まったとき
はるばる信州駒ヶ根・・・木曽駒ヶ岳の麓迄出かけて立派な石の墓碑を求めて来たのだった
私も同行してロープウェイにも乗って来た
わが家は総本家が栃木県黒羽にあるが歴史は長い、そこから分家した家の直系で、父は14代目とか聞いたことがある
ところが、総本家は立派な墓が続いているが、分家のわが家の墓も当然同じ寺にあったが、私の4代前の主が
亡くなって埋葬されたあとは不幸続きで、明治末期に栃木を逃げるようにして離れ、茨城の古河に移った、
私の祖母、祖祖母、髙祖母の女三人の傷心の旅だった
ここで知り合った現常陸大宮の徳五郎という人と祖祖母が結婚して、その家の墓を古河で建てて、祖母以外の家族は
ここに眠っている。 ところが戦争を挟んで父が墓参りに20年も行けなかったうちに、寺は無縁墓として処理してしまった
父が共同墓地を選んだ最大の理由はこれである。
それでも徳五郎さんの一家は寺の無縁塚で埋葬はされているので父は盆が近づくとお布施として送っていた
私も、この意は受け継いでいくつもりだ
父には実父と養父が居る、実父はこの町の出身ですでに亡くなっているが、この町の別の地域の共同墓地にいる
実父は父が乳飲み子の時に離婚して出て行った婿であったから、戦争が亡ければ縁もゆかりも無いままおわったのだが
戦争で父の養父と、その妻になった実母が爆死したので、再び実父との縁が復活したのだった
その養父と実母はアメリカの空襲で爆死して骨も残らなかったので、お墓が無い
養父のルーツは浜松で、そこに代々の菩提寺があったのだけど、その寺はアメリカ軍の艦砲射撃で住職もろとも吹き飛んだ
寺の息子が浅草の日輪寺にいたので生き残り、父は養父の弟と二人で養父と実母の葬儀をそこで行って立派な戒名と
位牌をいただき、今はわが家の仏壇に収まっている。
わが家はなぜか墓に縁の薄い家のようだ、だが見方を変えれば衰退する日本の未来の最先端なのかもしれない