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公教会を識別するための四つの特徴とは? 【公教要理】第六十講

2019年09月14日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第六十講 公教会の特徴について



イエズス・キリスト曰く「一つの群れ、一つの牧者」 と聖ヨハネの福音に記されています。その通りに、私たちの主がご自分の公教会を制定なさいました。つまり、主は、公教会の頭として至上の牧者である教皇と本物の位階制と信徒たちとからなる一つの社会を制定しました。

公教会というのは、時において、霊魂たちの聖化のために私たちの主イエズス・キリストの御業を引き継いで続ける社会です。

御自分の教会を簡単に識別できるように、私たちの主イエズス・キリストは公教会に四つの特徴(しるし)を与え給うたのです。「公教会の特徴」と呼ばれますが、時空を問わず、時代や地理的な場所を問わず、イエズス・キリストが制定して以来、世の終わりまで、公教会は全く同一のままです。つまり、制定から世の終わりまでいつでも同じ教会です。こういった本質的に変わらない教会が、信徒たちあるいは良識ある霊魂たちの誰によっても、容易に識別し認定できるように、教会に四つの特徴が与えられたのです。
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第一と第二の特徴は周知の通りです。信教の信条を読むと「聖なるカトリック公教会を信じ奉る」とあります。
つまり、公教会の第一の特徴は「聖」であることということです。そして第二の特徴は「カトリック」であることです。

主日のミサ聖祭の時に唱えるニケア信経の中に、四つの特徴が記されています。「Et unam, sanctam, catholicam et apostolicam ecclesiam」「唯一、聖、公、使徒継承の教会」を信じ奉る。
「Et unam(唯一), sanctam(聖), catholicam (公・普遍)et apostolicam (使徒継承)」。これらは存在するすべての諸教会とすべての社会・組織・国家を検討するなら、キリストの教会を特定・識別できる四つの特徴です。

私たちの主イエズス・キリストが制定なさった教会、つまりカトリック教会が「一、聖、公、使徒継承の教会」です。

次にこれらの四つの言葉の意味を説明してみましょう。
まず、なぜこの四つの言葉が使われているのかと思われるかもしれません。先ず、公教会と主イエズス・キリストとの継続性を強調するためです。なぜでしょうか。私たちの主イエズス・キリストご自身がこの四つの性質の完璧な持主だからです。

第一、イエズス・キリストは「一」でした。つまり、聖父(ちち)と聖子(こ)とは完全に一にして、唯一の天主です。聖なる三位一体の第二位格としての私たちの主イエズス・キリストは「私と父は一つである」 と仰せになった通り、聖父と聖子とは完全に一つであって、唯一の天主です。また、地上においても、二つの本性を持つイエズス・キリストは、同一の唯一のペルソナ・個別の存在です。このペルソナ・特定の存在が唯一であるからこそ、人間の本性と天主の本性は唯一のイエズス・キリストという存在において共存出来ています。つまりイエズス・キリストには「一」という性質があります。

私たちの主イエズス・キリストには「聖」という性質があります。これは当然なのですけど、イエズス・キリストご自身、ユダヤ人たちに「私に罪があると確認できる人がいるか」 と仰せになった通りです。私たちの主イエズス・キリストには一つの罪もありません。イエズス・キリストはこの上なく聖なる存在で、完全に聖徳を実現し続け、罪一つもありませんでした。

イエズス・キリストは「カトリック」でした。「カトリック」というのは、後述しますが「普遍・公」という意味です。従ってイエズス・キリストはこの上なく至上の光であります。言い換えると、この世を照らす唯一の光、本物の唯一の光であるとともに、イエズス・キリストが天主への接近の唯一の道であるということは「カトリック(普遍・公)」との性質の至上の持主を現す要素です。「私によらずには誰一人も父のみもとに行けない」 と仰せになった通りです。従って、私たちの主イエズス・キリストは、天国に辿り着けるために唯一の道であります。というのも、私たちの主イエズス・キリストが十字架上に死に給うたお陰で、私たちは天国に入れるのです。天国に私たちが行くために払うべき代価は、イエズス・キリストご自身でした。キリストこそが私たちのために御自分の命を捨てたお陰で、キリストの命は私たちの命ともなります。したがって、イエズス・キリスト以外に、救済を得る手段はないのです。私たちの主イエズス・キリストこそが、救済への唯一の手段・道です。

だから、イエズス・キリストは「普遍」な道、まさに唯一のこの上なく「公」の道で、「カトリック」なのです。カトリックとは「公・普遍」を意味しますが、またそれについて補足的に後述します。

イエズス・キリストは「使徒的」でもあります。なぜかというと、イエズス・キリストはこの上なく使わされた者(使徒)であるからです。イエズス・キリストは、聖父から送られて使わされた方なので「使徒」です。キリストご自身が「私は自分で来たのではなく天主から遣わされた」 と仰せになった通りです。なぜイエズス・キリストが「使徒的」なのかというと、イエズス・キリストこそが、使徒たちを選定し、宣教に送った使徒的宣教者だからなのです。

これらの四つの特徴・性質は、私たちの主イエズス・キリストにおいてこそ見出せます。公教会はイエズス・キリストの御業を続ける教会ですから、イエズス・キリストの持つ同じ「唯一・聖・公・使徒継承」という四つの特徴をも持っています。
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それでは、公教会の一性についてご紹介しましょう。何でしょうか。曖昧な意味で「一つになる」といったような、何かみんなで一緒に手を繋ぐようなことではありません。つまり、単に「一緒になって一つの社会をなす」という意味ではありません。
当然ながら、公教会は一般の社会と同じく統一した同一性を持つ、一社会であるに違いありませんが、究極的に言うと、公教会の一性を根拠づけるのは、何よりも先ず「信仰」に他なりません。
つまり、私たちの主イエズス・キリストから頂いた御教え・教義に他なりません。「私の教えは私のものではなく、私を使わされた御方の教えである」 とイエズス・キリストが仰せになった通りです。
公教会の一性を根拠づけるのは「信仰」であり、教会は唯一の信仰をもってこそ特徴づけられています。これは非常に大事なので特に念頭においておきましょう。なぜそれほど大事な特徴であるか、これからの説明で明らかになってきます。

「信仰の一性」という特徴ですが、公教会において普遍的な信仰を識別できる掟です。信仰というのは「何処でも何時でも信じられた」教えです。これこそが信仰の一性を成します。
信仰の一性とは、「使徒たちが信じていた真理」であり、「我々が現在に信じている真理」であり、つまり、二千年の隔たりがあっても、信仰は不変のままで、同じということです。
二千年前に使徒たちが信じていた教義は、彼らが信じていたイエズス・キリストの天主性は、現代において私たちの信じている同じ教義で「信仰の一性」を成します。

この「信仰の唯一性」こそが、私たちの主イエズス・キリストの一性を示しつつ、また聖父との一性を延長するかのようです。以上が「信仰の一性」でした。

それから次に、「一性」は「秘蹟」にも適用されます。霊魂たちの聖化のための諸秘跡にも一性があります。またいずれ、秘跡についてご紹介する際に細かく説明しますが、イエズス・キリストにより制定され、公教会に委託された七つの秘跡は、時空を問わず人々を問わず、全く不変で不動で同一です。

二次元的な「副次儀式・作法」において多少違ったりして変遷があるにしても、秘跡としての根本的な中心と本質は変わりません。その中心をなすのはなんでしょうか。「天主の聖寵」を施すために通る印号(しるし)としての「秘蹟」には、具体的に「質料・形相・授与者の意向」という基本要素が不動で不変で、イエズスに制定された通りで、同一です。信仰の一性の上に「秘蹟の一性」もあります。

その上に「権威の一性」もあるというべきです。位階制における権威の一性。同じ権威ですが、信仰のために、信仰を守る為にある権威です。信仰に仕える権威です。だからこそ、先ず公教会を特徴づける「信仰の一性」が第一にあります。

一般の社会においても、ある「権威」に従っているということだけでは済まず、すべての「権威」はある共通善のためにこそあるということを思い出しましょう。共通善に仕える権威でなければなりません。そこで、ある権威の正当性の基本的な基準は、共通善にどれほど仕えているかということです。一人一人がある社会に属するのも、ある共通善、人間を完成させ得る共通善を追求するためです。一社会である公教会も同じく、人々はある共通善を追求するために公教会に属しているということです。その共通善とは、まさに共通で一性をもち、霊魂の完成を追求する共通善で、天国を得られるという共通善です。

公教会の共通善は具体的に言うと、信仰秘跡に他なりません。言い換えると、公教会の共通善は「理性を照らす御教え」と「聖徳の内に成長させ糧を与える恩寵を注ぐ秘跡」です。権威とその一性は、信仰と秘跡との共通善に仕えるためです。従って、「権威の一性」とは、共通善のため、信仰と秘跡という共通善に仕える範囲内にある時に存在するということです。

以上は、同じ信仰、同じ秘蹟、同じ権威を言う時、概念では区別しているものの、究極的には公教会の共通善として一致しています。信仰と秘跡と権威を分離することは不可能です。
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以上、公教会の一性をご紹介しましたが、次は公教会が「聖」ということです。

どういう意味でしょうか。まず、公教会は創立者であるイエズス・キリストが聖なる故に、聖なる教会です。
ミサ聖祭には栄光頌を唱える時に「Tu solus sanctus御身のみ聖なり」という句で言う通りです。
繰り返しますが、イエズス・キリストご自身がユダヤ人たちに「私に罪があると確認できる人がいるか」 と仰せになった通りです。私たちの主は至上の聖なるお方です。従って、主イエズス・キリストから生まれた公教会は、その創立者が聖なるが故に、聖なる社会となります。また、公教会は聖なる御教えを預かっているが故に、聖なる教会です。

ところで気を付けましょう。その御教えは、公教会が宣教しているから、或いは公教会がその受託者であるから、聖なる御教えではなくて、その逆です。私たちの主イエズス・キリストの御教えであるからこそ聖なる御教えなのです。
時において公教会は、その御教えを預かり、引き継いで、宣教してそして教義の一性を守る使命を持つだけです。

イエズス・キリストの御教えであることにおいてこそ公教会の御教えは聖なのです。つまり、何か公教会内に言い出されているからすべてのモノが「聖である」といったようなレッテル付けなのではありません。公教会においての御教えの神聖さは、時において、代々に連綿として、不変に引き継がれてくる私たちの主イエズス・キリストの聖なる御教えとしての神聖さなのです。


次に、公教会は聖なる構成員を持つゆえに聖です。これも誤解しないように気を付けましょう。教会の一員なら皆聖人だという意味ではありません。
確かに公教会が制定された当初の諸世紀なら、構成員を指して「聖人」とは呼ばれていた習慣がありました。なぜそうだったかというと「聖寵」の状態にあるということを表すためでした。つまり、「聖寵」の状態ということは、「本物の神聖の始まり・第一歩」ということから転じた呼び方です。「聖寵」というのは、霊魂における神聖さの始まりです。

ところで、構成員の故に公教会は聖であるという時、「公教会を通して公教会のすべての構成員は聖徳の英雄的な実践を遂げ得る手段と聖寵が与えられているので」構成員の故に公教会は聖であると言います。教会は、英雄的な聖なる実践を遂げ得るように助けます。

構成員の故に公教会が聖であるとは、確かに、公教会が輩出した列聖されて認められてきた諸聖人を見て、公教会が確かに聖であると確認できます。これらの聖人こそ、それぞれの聖徳を実践する際に、聖徳の英雄的な偉業を遂げ切った人々で、聖人として輝いています。公教会の一員として「聖人になりうる」可能性を実現した聖人たちです。

この意味で勿論私たちへの模範ですが、それより大事なのは、聖人たちは主イエズス・キリストの聖徳の実践の反映であるということです。御覧の通り、「一性」についてと同様に、公教会の聖性について語るときに、必ず私たちの主イエズス・キリストとの関係でしか成り立ちません。つまり、私たちの主イエズス・キリスト抜きに聖人はあり得ません(英雄がいるかもしれませんが)。
そして、御教えが聖というのも、構成員が聖というのも、イエズス・キリストの聖性が時において引き継がれたことにおいてしか意味を成しません。

第四に、働きと実践の故に、公教会は聖です。勿論、奇跡を取り上げてもよいですが、それとは別に、公教会と共に歩んできた諸国家の繁栄も典型的な例です。言い換えると、公教会を受け入れたおかげで、諸国家の多くの働きが聖化されて、その偉業が遂げられました。特に憐れみと愛徳の働き・業・実践です。世俗のことも、精神的なことも。以上、公教会の聖性をご紹介しましたが、いつも私たちの主イエズス・キリストとその御教えと常に関連付けた一性と聖性です。


次に、教会は「カトリック」です。教会の「公性」です。何の意味でしょうか。
カトリック教会とは、教会が「普遍」であるという意味で、世界中に広まる社会だということです。
というのも、公教会は差別一つなく、すべての霊魂たちに及んでいます。これは聖パウロの示しているところです。つまり男女を問わず、身分を問わず、人種を問わず、だれでも公教会に所属できるというのです。この意味で公教会は普遍です。一人も欠かさずにすべての時代のすべての場所のすべての人々のために存在する教会です。この特徴も相変わらずイエズス・キリストに由来し、単純ですが、私たちの主イエズス・キリストが普遍であるが故に公教会も普遍であります。

では公教会の最後の特徴に移りましょう。
公教会は「使徒継承」であります。公教会が「使徒継承」ということは、イエズス・キリストの弟子たちである使徒たちの上に建てられている教会、使徒たちを柱として基盤として根拠としているが故に教会は「使徒継承」なのです。

公教会の教えは、使徒たちが教えていた教義だけであり、他に何も教えないということです。これが「使徒継承」の意味です。これも非常に大事です。もしも教会が使徒継承でなくなったら、自分の根拠を否定して、自分の基盤から離れるようなことなので、教会のお終いです。

家と一緒です。家あるいは建物が建っている下の基盤を破滅したら、家あるいは建物自体がいずれか崩壊するしかいないのです。したがって、教会の四ツ目の特徴は使徒継承であって、この特徴も非常に大事です。

聖パウロ自身も記したとおりです。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ。」 この聖パウロの発言は非常に激しいでしょう。異なった教えを伝えようとする単なる人間を取り上げているのではありません。周知の通り、人間なら、至上の権威を持った人でさえ、すべての人々は過ちを犯す紛れもない事実があります。聖パウロはそれより強い例を取り上げます。
天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ。」
この「私たちがあなたたちに伝えた福音」とは、イエズス・キリストから直接に受け継がれたそのままの御教えです。「天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ。」 「のろいあれ」というのは、排除せよという意味です。

従って、公教会には、何も「革新」しうることは一つもありません。その逆です。託されたものを維持・保存・保守するにすぎません。できるだけ、明徴し、精華しうるかもしれませんが、先ずに託された遺産を継承するだけです。一切革新することはありません。

第一ヴァチカン公会議の勅令によると、「新しい教義を教えるために、聖霊は公教会を制定したのではない」とあります。「新しい教義」は存在しないしあり得ません。
「使徒継承」の御教えであるからこそ、全く同じ教義で変わらないままです。これこそ公教会の強みなのです。あえていうと、ある種の「愛国主義・憂国心」に喩えても良いかもしれません。というのも、「愛国・憂国」というのは、受け継がれた伝統・精神・遺産を守り引き継いでいくということと類似していますから。

両親から引き継がれたことを侮る人はいるでしょうか。そうする者がいたら自分の両親に対する侮辱的行為になります。同じように、使徒たちを通じてイエズス・キリストからの遺産を受け継ぎました。そして、公教会はその遺産を保存・保守し、引き続き継承していきます。この意味でこそ、公教会は「使徒継承」なのです。
「一、 聖、公、使徒継承の教会」。これは公教会の四つの特徴です。またこの四つの要素が揃ってはじめて本物の公教会であることを識別・確認できます。

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