怖いのに顔が笑ってた

 怖くて笑っちゃった。そんなこともあるのかと思った。
 昨日は月に一度の通院日だった。約10年前にリウマチを発症し、足指の変形進行が特に酷くて、6年前に右、2年前に左の親指が人工関節に変わっている。今は月に一度の特殊な注射と、週一でステロイドの飲み薬という治療。状態が落ち着いている時は一万ぽ歩いても平気だが、何かのきっかけでふいに膝が腫れあがったりする。両の手首は既にある程度破壊されていて、片手鍋に中身が入ると片手では持てないし、硬いペットボトルや瓶の蓋、重いドアのノブは回らない。そんな時少し切なくイラダツ。そんな日々を送っている。
 一週間か十日ほどになるか、右膝が酷く腫れて、左膝も痛くて、立ち座りに苦労していた。去年からの五十肩の痛みと相まって明け方は布団の中で唸っていた。で、昨日。注射を打って貰ったら楽になるわくらいに思ってクリニックに行った。
 診察室へ入ると、いつもは「具合はどうですか?」「長く歩いたあと数日晴れたりしますがまあ落ち着いていると思います」という会話程度で終わるのに、先生は私の顔を見るなり、
「ちょっとねぇ先月の血液検査の結果が良くないんや。”(注射の薬剤の名)”を続けててこの数値はちょっとまずいなぁ…」と珍しい顔をなさる。私のジーンズの上から膝関節を触診し、「うわ、これはイカンわ」。壁際の処置用ベッドに横になるよう指示された。腫れによって溜まった水を注射器で抜き、即効性のある薬剤を直接関節内に注入するのだ。「これでもうひと月だけ様子見て考えよう」 普段から強い薬や治療を嫌がっている私の我が儘も考慮して下さっての言葉だと思った。 
 このところ五十肩の痛みのほうに重きを置いていた私はなんだが呆気にとられ、処置ベッドから降りながら、既に机に向かってカルテを書いている先生に、
「先生に”良くない”と言われるとビビります」と心細さを漏らした。先生は、
「いやいや(病状進行を)コントロールする方法はナンボでもある」とニヒルな感じで振り返った。
 先生、カッコええ。頼もしい。実際、この先生はこの道でも有名な名医である。にもかかわらず私は数年前、身勝手な決断から2年間クリニックに行かず、薬剤治療を一切断ってエライ事になった過去がある。実はこの一年ほども、注射と併用して飲むべきステロイドを内緒で飲んでいなかったのだが、そのせいかも…。ごめんなさい先生。昨日から慌てて服薬再開したことは言うまでもない。
 さて診察が終わり、会計を待っている時、私の後に診察室へ入った患者さんが出てきた。私より小柄で背が少し曲がったお婆さんである。70代か80を過ぎているかも。杖代わりの小さなカートを押しながら出てきた。その背中へ、ベテラン婦長さんが「すぐに電話して。いいから。ここでいいからすぐに」と声をかける。空いてはいたが院内の待合である。
 まもなくお婆さんのか細い声が聞くともなく聞こえてきた。「あああの私やけどな、今日これからすぐに入院せなアカンのやて。…うん、…そいでな、うん…腫れとったやろ? あれなぁ、膝の人工関節になぁ、菌が入ってるんやて。…うん…うん…ほいでな、切断せなアカンねんて」
 ええええええええええええええええ~~~~~~~~~~~っっっっっっ
 その時会計から名を呼ばれ、私は逃げるようにその場を立った。
 支払いをしてクリニックの扉を出た私は、声に出るか出ないかの独り言で「怖すぎるやん」と呟き、なぜか顔が笑ってしまっていたのだった。
 駅へ引き返す道、ずっと考えてしまう。いきなりそんなことを宣告されたら……。突然の入院、足の切断を電話で聞いた家族はどんなに驚いた事か。お婆さんは。リウマチの患者さんは長患いである。ずっと痛みや不自由を堪え、だましだまし暮らしてきて、80前後にもなって片足を切断と言われても事態が呑み込めていないんじゃないだろうか。そんなことがあるのか。人工関節内に菌が入る? ちょっと待て待て、私も両足親指がそうなんだけど、私にも起こる可能性有なの!?
 ひええ~~~~、ひええ~~~、としばらく恐ろしく、そしてその間やはり顔は笑っているのだった。
 本当に怖い時、人は笑ってしまう、ということもあるのだろうか。それとも私だけ?