脱臼、そして

 ひとは、いやいや、私はだ、痛い目を見なきゃ分からないんだと、つくづく呆れる。
 それでも気付けたのだから良かった。「過ちては改むるに憚ること勿れ」というではないか。
 脱臼を繰り返さないよう用心しろと言われた三週間が過ぎた。
 脱臼をしたおかげで、家の中のことが出来る喜びを日々噛み締めている。
 普通に、水道の蛇口がひねれて、包丁で野菜が刻めて、フライパンの中身を菜箸でかき混ぜられる。好きな時に自分のコーヒーや夫にお茶を淹れられる。そんな一々に幸せを感じる。掃除機を操って、床にちらほらする埃や毛を取り除けるのさえ清々と気分が良い。
 脱臼から三日間は医師から安静を言い渡されていたので、利き手の右腕を巾広のベルトと三角巾で固定し、家事一切を夫に禁じられ、外出を止められた。仕事で疲れた夫が買い物してきてくれた総菜を食べ、食後の洗い物も夫。
 三日が過ぎると、恐る恐るTシャツの脱ぎ着をし、散歩に出た。スーパーに寄って、さあ買い物ができると思ったら、右肩にはまだ重さを掛けられず、左肩も同様の骨の状態なので、力が入らず、レジカゴに大根を入れた途端、重くて、今にも関節が外れそうで、怖い。ジャンパースカートの肩ひもがずり落ちたのを直そうとしたら、タイトに曲げた肩の関節がねじれるような嫌な感じがするのだ。牛乳を買うのを諦め、軽そうなものだけを買って、逃げるように帰った。
 これは大変なことになった。私はもう普通にスーパーで買い物もできないのかと改めて慌てた。
 私の脱臼は、持病のリウマチの為か、骨がもろくなっていて、関節の一部が欠けて小さくなっていて、筋肉は落ちていて、簡単に外れる状態だったことがこの度分かった。
 せめてもう脱臼を繰り返さないために、骨を丈夫にし、筋肉を少しでもつけて。これまでの間食重視の食生活を齢五十過ぎて真剣に見つめ始めた。タンパク質とカルシウム、適度な運動。
 ネットでストレッチと食事メニューを検索していると、夫がバスの待ち時間に駅前のドラッグストアで、プロテインの飲料やスナックバー、カルシウムのサプリやらを沢山買ってきてくれた。ありがたい。本当にありがたかった。
 自分の動作と向き合ううち、一日一日、体が落ち着いて、動作が確かになってくるのを感じられた。怖かったレジカゴの重さが徐々に平気になっていく。体って凄い。直後の不安定さがどんどん薄れて、恐怖心も薄れていく。
 すると、今まで買わなかった野菜を手にし、ネットでレシピを検索し、わくわくと流しに立てる。今日はおツトメ品のバナナでついさっきケーキを焼いた。もうちょっとで焦げるとこだった(汗&笑。
 特別何かをするわけではないが、毎日が楽しい。五年前の足の手術入院だって、日常の不自由からの回復を体験していて、その時も気持ちに変化があったけれど、今回はなんだか違う。もっと地味にしっとりと心は寛いで。
 前回との違いは何だろうかと考えてみた。
 手術の時は傷と体力が早く癒えることを待っていた。しかしこの度は、ここがスタートでここからが勝負、というところがある。
 これまで私は好き勝手をやっていたのだ。自分のことは自分で済ませ、夫に迷惑を掛けないよう、夫の身の回りのことが出来ればいいと。結婚して二十三年と七カ月、こんなにも自分の体を見つめ、夫の好意によりかかり、大して夫の役には立たず、でも夫を思いながら、傍にいていいのだと安堵したことはなかった。
 人生の折り返しも過ぎたと考えていたが、まだまだぜんぜんなんだ。寿命が尽きる時までずうっと、目からウロコを落とし続けていくのだろう。いつだって生き直せる。