場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

赤穂義士ゆりの地探訪

2018-11-09 10:42:16 | 場所の記憶
 コース:①皇居東御苑(旧江戸城本丸跡・松の廊下刃傷の地)〜②東京駅八重洲口(吉良邸江戸上屋敷跡)〜③両国橋(大高源吾句碑)〜④本所吉良邸(討入りの地)〜⑤義士アジト跡〜⑥堀部安兵衛の碑〜⑦永代橋〜⑧浅野家上屋敷〜⑨間新六の墓(西本願寺)〜⑩浅野内匠頭自刃跡〜⑪仙石伯耆守屋敷跡(日本消防協会)〜⑫毛利家上屋敷(テレビ朝日)〜⑬寺坂吉右衛門の墓(麻布曹渓寺)〜⑭細川家下屋敷〜⑮泉岳寺

① 松の廊下刃傷の地
まずは皇居大手門をくぐり、一ノ門跡、二ノ門跡、旧二の丸跡、百人番所、中之門跡、本丸跡をたどる。松の廊下は、本丸跡の広い敷地の左手植え込み沿いの遊歩道を北に進んだ木立の中にある。
 元禄14年3月14日、この松の廊下で浅野内匠頭の刃傷があった。内匠頭はただちに捕らえられ、平川門(不浄門)から運び出された。内匠頭を乗せた網乗物駕籠は、平川門から大手門、日比谷御門を通過して、桜田、愛宕下を抜けて田村屋敷に運ばれた。警護の者総勢75人というものものしい護送だった。

② 吉良邸江戸上屋敷跡
東京駅八重洲口の国際観光会館前。北町奉行所跡地であり、元の吉良邸はここにあった。吉良上野介が本所松坂町に住まいを移したのは元禄14年8月19日のこと。事件後、上野介は世間をはばかり高家筆頭の辞職願いを提出。居宅を移したのは、隣家の蜂須賀家から、赤穂浪人討入りの危険があり物騒である、との苦情が出たためといわれている。

③ 両国橋
両国橋東詰に、大高源吾の「日の恩や忽ちくだく厚氷」の句碑がある。この句、深読みすれば、なにやら討入りを想定して詠んだ句にもみえる。
 大高源吾は俳号を子葉といった。講談では両国橋の上で宗匠の宝井其角に出会った際に、「年の瀬や水の流れと人の身は」(其角)と源吾のやつれた姿を哀れんで詠んだのに対し、「あした待たるるその宝船」(子葉)と返したことになっている。

④ 本所吉良邸
敷地の一部が現在は本所松坂町公園(両国3丁目8番地)という小さな広場になっていて、白塀に囲まれた園内には、上野介首洗いの井戸や松坂稲荷大明神などが残る。
 この地は、いわずと知れた、元禄15年12月15日、赤穂浪士による討入りがあった場所である。
 討入りによる激闘は早朝の4時から2時間にも及んだといわれ、この結果、吉良側の家臣20人が討ち死にした。赤穂浪士側には負傷した者はいたものの、死者は一人もなかった。吉良側は不意をつかれたため犠牲者が多かったことがわかる。

⑤ 義士アジト跡
堀部安兵衛ほか7人は本所林町5丁目(竪川南岸、現立川3丁目)の紀伊国屋、杉野十兵次ほか3人は本所徳右衛門町1丁目(竪川南岸、現立川3丁目)の大野長十郎店、前原伊助、神崎与五郎、倉橋伝助の3人は本所二つ目、相生町3丁目(竪川北岸、二ツ目之橋付近)にアジトをつくっていた。討入り当日、浪士たちが参集したのもこれらのアジトである。ここから四十七士は東西二隊に分かれ、表門と裏門に向かった。いずれのアジトも竪川のほとりにあった。

⑥ 堀部安兵衛の碑
亀島川にかかる亀島橋の北詰にある。石碑には安兵衛の生い立ちと行跡が刻まれている。安兵衛の住まいがこの近くにあった。大酒の呑みと伝えられる安兵衛は本当は下戸であったという。なお、安兵衛の碑は高田馬場にもある。(西早稲田3丁目、水稲荷神社内)

⑦ 永代橋
討ち入り後、四十七士は隅田川東岸を南下し、深川に至り、永代橋を渡るが、一行は橋の袂にあった乳熊屋味噌店(現乳熊ビル)で甘酒をふるまわれたという。さらに、その後、霊岸島、稲荷橋を経て浅野家上屋敷前に至った。

⑧ 浅野家上屋敷跡
現在、聖路加病院がある敷地を含む八千九百余坪が屋敷地だった。石碑あり。

⑨ 間新六の墓
西本願寺の境内に四十七士のひとり間新六の墓がある。彼は本願寺の檀徒のひとりで、切腹した新六(23歳)の遺体は彼の姉婿中堂又助の願いにより引き取られ、この寺に埋葬された。

⑩ 浅野内匠頭自刃跡
浅野内匠頭が切腹した地。通り沿いに「浅野内匠頭終焉之地」と刻む大きな碑が立っている。田村右京太夫屋敷跡。港区新橋4丁目。切腹が行われたのは元禄14年3月14日、午後6時頃のことだった。

⑪ 仙石伯耆守屋敷跡
現日本消防協会ビル。港区虎ノ門2丁目。幕府大目付仙石伯耆守屋敷跡。大石内蔵助に指示されて、吉田忠左衛門と富森助右衛門の両名は大目付の仙石屋敷に走り、吉良の仇討ちを自訴した。二人が足を洗ったとされる井戸の跡に、モダンなつくりの泉水が湧き出ている。由来のプレートあり。

⑫ 毛利家上屋敷
現テレビ朝日の敷地。港区六本木6丁目9。岡島右衛門、村松喜兵衛ら10名がここで切腹した。

⑬ 寺坂吉右衛門の墓
麻布曹渓寺内、境内裏手高台にある。港区南麻布2丁目。吉田忠左衛門の足軽だった寺坂は、内蔵助の命を受け、義士の行跡を後世の人々に伝え残すために、途中、義士の一行から離脱した。のち、山内家に仕官し、83歳の天寿をまっとうした。

⑭ 細川家下屋敷跡
高松宮邸と高松中学の敷地にかつての屋敷があった。港区高輪1丁目4。大石内蔵助ら自刃跡の碑が立つ。背後の林が切腹の場所と伝わる。細川家では藩主みずから義士に面接して労をねぎらったという。

⑮ 泉岳寺
浅野家の菩提寺。泉岳寺にたどり着いた四十六士は吉良の首級を主君の墓前に供えたあと、それを泉岳寺に預けた。首はその後、吉良家に返されたという。
 みどころは、吉良の首を洗った首洗いの池、内匠頭の墓、夫人・瑶泉院の墓、内匠頭の弟・大学の墓、父長友の墓。義士の墓は預けられた四家ごとに祀られていて、四十八基ある。入口の門は、浅野家上屋敷の裏門を移築したもの。左手端の「刃道喜剣信士」は萱野三平の供養碑、右手、水野家預かりの9人の端にある「遂道退身信士」の墓は寺坂吉右衛門の追悼碑。切腹した義士の墓にはすべて「刃」の文字がつけられている。
 また、境内には義士記念館がある。四十七士の木像はじめ、陣太鼓や衣装などが展示されていて、義士たちの面影をしのぶにふさわしい場所になっている。
 毎年、討ち入りの行われた12月14日には「義士祭」が行われる。






















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