前回まででイギリスの中国での戦争、インドの植民地化を見て来ました。
ここまでで「充分おなかいっぱい💦」だと思われますが、この時代、イギリスはまだまだ戦争をしているところがありました。
現在のトルコを中心にして存在した「オスマン帝国」への介入です。
(私が高校生の時は「オスマン=トルコ」と呼称されていましたが、その当時はトルコと言われてなかったということで、現在は「オスマン帝国」になっています。)
オスマン帝国は13世紀末に小アジア半島で起こり、16世紀の第10代皇帝のスレイマン1世の時に最盛期を迎えます。
長い歴史を持っている国です。
非常に高度な文化を持ち、優れた人間なら人種を問わず官吏に採用する柔軟性を持っていました。
領土最大時には西アジアだけでなく、北アフリカ、そして東ヨーロッパをも支配していました。
今の時代、「トルコ」と言えば小アジア半島にある国ですが、どうでしょう?
オスマン帝国は現在は別独立国になっているところまで支配が及ぶ大国だったのです。
ヨーロッパの人にとり、
・732年にはウマイヤ朝が「トゥール・ポワティエ間の戦い」でフランク王国まで攻め込んで来たり、
・イベリア半島(現在スペインやポルトガルのある)もイスラム勢力である後ウマイヤ朝(756~1031)があったり、
・近代には東ヨーロッパ(主にスラブ諸国のあたり)がこのオスマン帝国領
であったので、
「イスラム」「イスラム勢力」「イスラム教徒」にナーバスになるのももっともなのです
ロシアが帝国として安定・拡大してくると、ロシアとオスマン帝国を黒海を挟み、領土争いを何度も起こします。
ロシアとしては、「不凍港」を持ち、「地中海へ進出」したくなります。 →ここで解説しています
地中海へ出て来られては迷惑なのがイギリス・フランスでした。
そのため両国はしばしばオスマン帝国側につき、ロシアと対峙します。
19世紀になると国民主義の影響を受け、民族解放運動が盛んになります。
オスマン帝国から次々に独立国が登場します。
領土が広大で様々な民族と宗教を内包しており、常に危機をはらんでいました。
1798年にナポレオンが、当時「敵」と見なしていたイギリスがインドへ行き来するエジプトに遠征します。
オスマン帝国はアルバニアのムハンマド=アリーに追い払わせ、彼をエジプト総督にします。
フランス革命の影響を受け、ヨーロッパの国民国家の統一・独立を促す考え方は、ギリシアに強く反映し、1821年、ギリシア独立戦争が起こります(1821~29)。
ギリシアの思想・芸術を自分たちの文明の始祖と見なすヨーロッパは、ギリシアのオスマン帝国からの独立を支援します。
イギリス・フランス・ロシア、それぞれが特別な国だけがこの地に影響を及ぼすことをきらいました。
オスマン帝国はエジプトに支援を頼み、
オスマン・エジプト vs イギリス・フランス・ロシア の戦い
となりました。
1829年、ギリシアはオスマン帝国から独立を果たすことができました。
すると戦いに協力したエジプトがイスラエル・ヨルダンの地域(この地域を現在はシリアとは別、エジプトの東北地域をシリアと呼びました)をオスマン帝国に要求するようになりました。
オスマン帝国内のエジプトであったはずが、次第に自己主張をするようになってきたのです。
1831年、第1次エジプト・トルコ戦争が起こります。
オスマン帝国の昨日の敵、ロシアに援軍を頼みましたが、負けてしまいます。
1839~40年、第2次エジプト・トルコ戦争が起こります。
エジプトが強くなりすぎることに、ヨーロッパ列強も警戒します。
まだスエズ運河ができる前ですから、インド・アジアへはこの地を通らなくてはなりません。
フランス・エジプト vs オスマン帝国・ロシア・イギリス・プロイセン の戦い
となります。
少し複雑ですか?
要は
・オスマン帝国各地から独立運動が起こる
・ロシアは不凍港の獲得のため、南下したい
・イギリスはロシアの南下に警戒、植民地インドへ通じる道を常に確保する必要がある
・フランスはイギリスの動きに敵対
です。
1840年、ロンドン会議にて
オスマン帝国はアリー一族の世襲王権を認める
エジプトはシリア(先に記したようにエジプト東北のイスラエル・ヨルダン地域)を手放す
ことでエジプトは独立を認められ、独立君主国ムハンマド=アリー朝エジプトとなりました。
このようなオスマン帝国領内で帝国に支配されていたギリシア・エジプト・スラブ人(←主にバルカン半島にいます)などの独立意識が高まると、ヨーロッパ列強が介入して来ました。
これを「東方問題」と言い、バルカン半島の問題は第1次世界大戦の要因にもなって行きます。