#160 憧れの番台に座った若旦那 ~「湯屋番」~ | 鑑賞歴50年オトコの「落語のすゝめ」

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1956年に落語に出逢い、鑑賞歴50余年。聴けばきくほど奥深く、雑学豊かに、ネタ広がる。落語とともに歩んだ人生を振り返ると共に、子や孫達、若い世代、そして落語初心者と仰る方々に是非とも落語の魅力を伝えたいと願っている。

寒くなると銭湯の大きな湯船にゆったりと浸かりたくなる。温泉なら尚更結構なことである。肩まで浸かって「あー」と発して日本人を感じる人は少なくないであろう。「極楽は

湯船の中に 在りと聞く(拙句)」。「俺、この前、ニューヨークへ行って来たよ」「へえー、JALでかい、それともANAでかい?」「いえ、戦闘機で」。

下らん前置きはこれ位にして、「湯屋番(ゆやばん)」という銭湯(湯屋、風呂屋)を題材にした古典落語の代表作の一つを聴いてみよう。道楽が過ぎて勘当になって居候をしている若旦那を主人公にした滑稽噺である。

 

 道楽が過ぎて勘当された若旦那、出入りの棟梁の2階に居候させてもらう。だが、毎日食べてはぶらぶらしているばかりなので内儀との折り合いが悪くなった。さすがの若旦那も居辛らくなって棟梁のつて(・・)で湯屋へ奉公に行くことになった。

 その道中、湯屋の亭主を勝手に亡き者にして後釜に入ることを空想した後、女湯から入る。亡き者にされた亭主が「もしもし、そちらからはダメですよ」と咎める。「こっちが好きなもんで」と若旦那は言い、棟梁からの紹介状を差し出す。「あなたが噂の若旦那ですか、棟梁から話は聞いています。では、普請場からの廃材つまり燃料集めをやってもらいましょか」「汚い仕事はいや、番台に座らせて」「番台は楽なように見えますが、着物や履き物に間違いのないように目配りしたり、料金を頂いたり、糠袋や石けんの販売やお客さんの苦情を聞いたりなど大変な仕事ですよ。女湯を眺めている余裕などありませんよ」「分かってます。是非、やらせて下さい」。亭主は店の信用に傷をつけないか?と苦慮するが棟梁の頼みということもあって番台に座らせることにした。

念願の番台に上げてもらった若旦那、嬉々として女湯を眺めるが空っぽ。男湯は見苦しい奴らが大勢入っているというのに。「まあそのうちに、女中を連れた粋なお妾さんが来るよ。すぐに俺を見初めるよ」と早速、空想を始める。「俺が彼女の家の前を通ると、泳ぐように内から出てきて“まあ、お兄さん、旦那は留守だから上がってよ、お願い、上がってよ”と腕を引っ張るよ」。「おい、見ろよ。変な奴が番台に上がって自分で自分の手を引っ張っているよ。見物しようぜ」と男客たちは番台に注目する。

「やがて盃のやりとりが始まるよ。そこへ遣らずの雨、雷も鳴るよ。にわかの落雷、“兄さん、怖い!”と俺に抱きついてくるね。…」と若旦那の白昼夢は続き、番台の上で派手な所作も交えて一人芝居を演じる。男客は皆、呆れ顔で若旦那に見とれ、軽石で顔をこすって血を流したりする奴も出てくる。この噺のメインとなる聴かせ所である。

 やがて、帰り客の一人に「俺の下駄が無くなった」と苦情を言われた若旦那、「好きなやつを履いて帰って下さい」と言う。客が「その持ち主が困るだろう」と切り返すと、「なあに、順繰りに好きな物を履いて帰ってもらい、最後の人は裸足で帰ってもらいます」。

 

 あまり冴えないサゲである所為か、客が血を流すところで高座を降りる演者も多い。一般的には四代目三遊亭円遊三代目三遊亭金馬の高座が代表的なものと言えよう。

 六代目三遊亭円生は若い頃、義太夫語りをしていたことがある。その時に鍛えたノドはプロ級で、音曲噺では他の追随を許さないものがある。この「湯屋番」でも湯船の中で都々逸や端唄を唄う場面を入れるなどして膨らませ、40分を越す一席に仕上げていて聴き応えがある。

 

江戸時代では、蒸気の部屋(蒸し風呂 今で言うサウナ)を“風呂屋”と呼び、お湯に浸かる銭湯を“湯屋”と呼んで区別していたそうである。

銭湯を題材にした噺は他に「浮世風呂」という音曲噺がある。この噺には江戸から明治に掛けての湯屋の構造が盛り込まれていて参考になる。湯船の中で義太夫を語る件がメインで六代目円生の独壇場である。

 

この稿を書くに当って銭湯について調べたら、2016年時点で全国で4,000軒近くの銭湯が営業を続けているそうだ。ピーク時(1968年頃)の1/5に減ったとはいうが、銭湯は昭和の遺物だと思っていた私にとっては予想外の多さであった。

内湯が普及し始めたのは戦後の高度経済成長期であったという。恐らく団地という生活様式の進展と関わりがあったのであろう。従って、昭和40年代頃までは多くの日本人にとって銭湯は生活の一部であり、床屋と並んで町内の触れ合いの場であった。

また、1946(昭和21)年に公布された物価統制令の適用を今でも受けているということを知って驚いた。戦後、国民の衛生状態を向上させるために入浴を奨励し、そのために料金の上限を法律で規制したものであった。私が通っていた1940年代では水が貴重な資源であった為洗髪料金が別途徴収されていたが、さすがにこれは消滅しているようである。

1952(昭和27)年に放送が開始されたNHKのラジオドラマ「君の名は」が女性の間で空前の人気となり、放送時間帯は女湯が空っぽになったという伝説も思い出される。

銭湯についての想い出は尽きない。内湯もいいが、たまには銭湯の大きな湯船で想い出に浸りつつ、ゆったりとした気分になるのも悪くないなあと思っている。私は小学校低学年の頃まで銭湯に通った。家から3分の所にあり、「みなと湯」と言った。そこの番台に座っていたソバカス美人の女将さんの顔を今でも覚えている。私にとって銭湯は郷愁をかきたてる一つの場所である。

  

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