東京落語の祖と言われている初代三笑亭可楽の作と伝わる「城木屋(しろきや)」というお裁きものを鑑賞しよう。この噺は三題噺という寄席独特の趣向も持っている意義深いものである。
三題噺というのは、中入りの時間に客からお題(人名、地名、品名などの名詞)を3つ出してもらい、自分の出番(大抵はトリ)までに一席の噺を創って高座に掛けるというものである。この噺の場合のお題は、“江戸一番の美人娘”、“伊勢のつぼやの煙草入れ”と“東海道五十三次”の3つであった。さて、どんな噺に仕上げたか? 聴いてみよう。
江戸日本橋新材木町に在る城木屋の娘・お駒はまったく非の打ち所のない評判の美人である。このお駒に番頭の丈八が激しい恋心を抱いた。ところが、丈八は40歳を越えた、非の打ち所のない醜男ときているからまったく釣り合わない恋であった。丈八は盛んに色目を使い、口説こうとするが、お駒は育ちの良さから邪険にはせず、やんわりと求愛を拒否した。逆にこれが災いして、一縷の望みを持った丈八は恋文を渡すなどますます求愛行動をエスカレートさせた。
ある日、娘の着物を畳んでいた母親・お常が袂に入っていた丈八からの恋文を見つけた。早速丈八を呼んで、「番頭さん、お店内での恋沙汰はご法度とよく知っていられるのであなたの仕業でなく、誰かがあなたを陥れようとしているのだと思います。ただ、番頭さんにも油断があるようですから気を付けて下さい」とやんわりと釘を差した。正に“真綿で首”であった。
この出来事はたちまち店内で噂になり、「振られ番頭」とか「馬鹿番頭」とかと囁かられるようになった。さすがの丈八も居たたまれず、店のお金百両を奪って生まれ故郷の府中(現在の静岡県静岡市葵区)へ逐電した。
時が経過したある日、丈八はお駒が近々婚礼を挙げると風の便りに聞いた。まだ未練を持っていた彼は他人に取られる前にお駒を殺して自分も死のうと無理心中を決意した。
江戸へ舞い戻り、刀を買って城木屋へ忍び込んだ。夜半にお駒の寝所へ入り、馬乗りになって刀で刺殺しようとしたが、目を覚ましたお駒に「泥棒!」と騒がれて失敗、刀を放り出して逃げた。その時、愛用している“伊勢のつぼやの煙草入れ”を落として行った。
その2つの遺留品から足がつき、召し捕られた。
奉行・大岡越前守の下でお白州が開かれた。丈八は初め犯行を否認していたが、遺留品を突き付けられて自白に転じた。
“娘子を 駿河細工と思えども 籠の鳥にて手出しがならぬ”と一首詠んだ後、犯行に及んだ心情を言い立てた。「元はと言えば東海道より思いつめ、鼻の下も日本橋、お駒さまの色品川に迷い、川崎ざきの評判にも、あんな女子を神奈川(かんながわ)に持ったなら、さぞ程もよし保土ヶ谷と、戸塚まいてくどいても首を横に藤沢の、平塚の間も忘れかね、その内大磯、こいそとお駒さんの婿相談、どうぞ小田原になればよいと、箱根の山にも夢にも三島、たとえ沼津、食わずにおりましても原は吉原、蒲原立てましても、口にも由井かね、寝つ興津、江尻もじりといたしておりました」。
申し立てを聞いて越前が訊いた。「東海道を子細にわたって申し述べたの。してその方の生まれは?」「駿河のご城下でございます」「うーん、あのこな、不忠(府中)もの奴(め)が」。
この噺には冒頭に記した2つの意義以外にもう一つ、“言い立て”という手法が観られることが特筆される。即ち、最後の部分で、東海道の宿場町(イタリック体で書いた地名)が1番目の品川に始まって19番目の江尻まで順番に織り込まれて1つの文章(宿場尽し)になっているが、こうしたものを“言い立て”と言い、その後これを踏襲した噺が多く創られている。物売りの口上、物事の由来・効能あるいは物尽くしとしてリズミカルに演じられ、耳に心地よさを与えるものである。
上記の筋書きはこの噺を得意ネタの一つとした桂歌丸の口演によったが、他の演者の高座では“棒使いの口上”や“独楽回しの口上”も出てくるそうだから、かなり凝った創作噺だったようだ。