前回「所作の美しさ」が最後に出てきましたが、視覚に訴えかけるものの一つとして考えています。

 
 
 
では今回は視覚と第六感について考えていきます。
 
 
 
まず視覚については意味そのままに、見たものが美しく思えるか思えないかです。
 
 
 
では書道で視覚に訴えかけるものは何があるでしょうか?
 
 
①所作の美しさ
②墨の美しさ
③表装の美しさ
④線の力強さと安定感
⑤余白の美しさ
⑥全体の安定感
 
 
などでしょうか?
 
 
 
この中で僕は「所作の美しさ」というのを一番重要なものと考えています。その他のものは二の次です。
 
 
まず、書聖王羲之の言葉に次のようなものがあります「体を整え然る後装束」と。
 
 
 
正しい姿勢であるから正しい文字が書けて、それから衣装を纏う。その衣装は身分や品位によって変わる第六感の部分。つまりまずは内容をどうこう言う前に正しい形を学ばねばならないということ。
 
 
 
この姿勢、所作の美しさにも通じることですが、私は表現力とか技術とかいう以前に最も大事なことだと思ってます。
 
 
 
 
姿勢と形を整えることもできずに、文字は人間が自由に表現できるものだから、思いのままに筆を振るって楽しく書いてみましょう!と謳う方にはいつも疑問を感じます。甘い言葉に人間はとかく騙されがちです。
 
 
 
技術的なことを言うと、姿勢が悪いと線は曲がります。真っ直ぐ書けません。安定感や余白の美しさの表現以前の問題になってしまいます。
 
 
 
次に「構え」そのもので書に対して本気で真剣に取り組んでいるかどうかというのがわかってしまうことです。
 
 
 
本当に優れた能書家というのは構えを見た時点で「格の違い」というのを思い知らされます。
 
 
 
まだ書いてもいないのに構えを見た瞬間この人には絶対に敵わないというようなオーラをまとっているんです。
 
 
 
剣道をやっていた人なら聞いたことがあるんじゃないでしょうか?
本当の達人を前に剣を構えると、打ち込んでもいないのにその人の構えから発する気迫に前に進むことができず、後退するばかりで1度も剣を交えずに場外に出てしまった。
 
 
 
という話。
 
 
 
僕は幕末三舟の山岡鉄舟の話から知っています。
 
 
 
道の付くものは全て同じで、剣道と書道、形は違えど構えた時点で達人かどうかわかるものなのだと思います。
 
 
 
僕が知っている限り、今話に出た山岡鉄舟、日下部明鶴、鈴木翠軒先生、そして身内で申し訳ありませんが僕のおじいちゃんの構えは写真で見ただけでも圧倒的な格の違いを思い知らせてくれます。是非一度見てみると良いと思います。
 
 
 
今出てきたように、視覚に訴えかける要素として捉えても、構え、所作の美しさというのは大変重要なものとなってきます。
 
 
 
先に出てきたように、表現や線の美しさなどは二の次の話です。内面から発するものが表面に表れるというのを書を志すものはもっと意識して良いと思います。
 
 
 
ちなみに山岡鉄舟先生「字というものは一体筆で書くものだろうか、それとも心で書くものか?」と客人に尋ねて、どちらの答えを出しても問い詰めて済度してやろうと思ったという話があります
 
 
この答えに少しずつ近づいているかな?と我ながら思っているのですが、達人の心境にはまだまるで及びません。
 
 
 
さて、次に第六感についてですが、これは前章に出てきたように、好きか嫌いか、何となく良いと思うか思わないか、という領域になってくると思います。
 
 
構えの格の違いも第六感に当てはまりそうな気もしますが、こればかりは良いとか悪いとかいう次元を超越したものだと思っています。
 
 
 
さて、人間は個性の塊ですから人それぞれ考え方が違います。
第六感に当てはめて、今の時代、こういった書を書くべきだ、もっと面白くアートチックに、ワ-!っとした字を、と散々聞かされてきましたが、これも人によって良い悪いは違います。
 
 
 
特に私たちのように組織で動いている人間が、人の第六感によった意見だけで方向性を変えてしまっては組織がメチャクチャになってしまいます。
 
 
 
個人として第六感に沿った表現を突き詰めて行くというのは大いに良いと思うのですが「組織として」やっていくというのは非常に繊細で難しいところがあります。
 
 
 
ただ、指導者としてその人の第六感による個性を引き出してあげるというのはとても大事なことだと思います。
 
 
 
今記事を書いていて思いましたが、様々な人の個性に触れることで、色んな人間の感性を知ることができるのではないのか?と思いました。もう少し頑張ります。
 
 
 
いずれにせよ、感性に共感できるかできないかは人によって違いますからいちいち、あの人がこう言ってるからとかウケが悪いからといった理由で自分の書を変えてしまうのは自分への偽りだと思います。
 
 
 
もしそこを磨いていけるとしたら技術とか知識ではなく人間性について考えることだけじゃないでしょうか?
 
 
 
視覚から訴えかけるのももちろん大事ですが、書を突き詰めていくと人間性というものに突き当たります。
 
 
 
書が終わりのない勉強と言われるのはこういったところにあるのだと思います。