有名なヒーラーさんのセッションを受けたんだけど


オンライン越しに

ざわざわとして

本人も

落ち着かなそうで


「うわ〜! いっぱい憑いてんな〜」


っていうのが第一印象


その人のエネルギーの騒がしさったらもう


大丈夫かな〜?って。




何と繋がってるのか


その人が


どのくらいクリアかっていうので


内容も変わってくるわけで


施術者が整っているっていうことは


超、大事。


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個人セッション









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私のひい祖父さんである黒澤喜市は、

お寺の娘だった曽祖母と結婚するなり、

芸者とかけおちして行方不明になった。


明治5年に生まれたっていうのに

死亡届がだされたのは平成の4年。

計算すると、120歳で亡くなったことになって。


んなわけねーだろ!って。



どんな野垂れ死にかたしたんじゃい!

よくもいろんなカルマを置いてってくれたな


と。


黒澤家男子のメンタルが弱いのは

お前のせいだ!


なんだったら、

病気やら災いやらの原因の一つなのでは!


とっつかえまえて、浄化してやる!

と、

私は、自分の家系の業の深さに辟易しつつも
鼻息を荒くしていた


だけど
あらためて
ファミコンをとおして

喜市とつながると


ひたすら、

ごめん!

っと、言い訳していたわけで


そもそも

顔もみたこのない

ひ孫なんかに興味もないし、


結婚も、常識も、ルールも、

病気ですら眼中になく、

無責任。

よく言えば、

彼がとにかく自由だということ。

無責任なんだけど、

常識にまったくしばられない

パワフルさ。


今、

この喜市の

眼中にないくらい自由である


っていうパワーが

とっても必要で、

それに気がつくことで
私の知覚が変わり、


それが受け取れたのは

一つ、喜び。


さすが、喜市!

ありがとう!先祖!

ps
駆け落ちされた超絶美人だった曽祖母も
すぐに次の旦那を見つけて幸せに添いとげてて
曽祖父に負けなかったのであります。

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個人セッションの詳細・お申し込みはこちらから


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 人間にできることはすべてAIでもできる。それならば人間の固有性とは一体何か。この困難な問いに、東浩紀は近著でちゃんと答えた。すべては幻想だ、と。人間の固有性は幻想として残る、と。

 仏教は無自性を説く。「すべては幻想だ」というのと、「自己は存在しない」というのは、切り口の角度こそ違え、ことがら自体としては同じことを言っているのだろう。
 「自己は存在しない」というのは難しいことでも形而上学的なことでもなんでもなく、リアルで生々しい生活実感だ。一ヵ月前の自分と今の自分が別人だということは誰でも感じている。本は再読するたびに印象が違う。少し前にあんなに好きだった人は今では棒きれと同じだ。自己が存在しないことに疑問の余地はない。
 それなのになぜ人間は自己の持続の感じを持ち、その消滅=死を厭うのか。この大きな謎にも、東浩紀は仮説を提示した。

脳がスタンドアロンでしか動いていないから意識という状態が生まれているのであって、全く同じ計算過程を計算機上で再現しても、その制約がなければ意識は生まれないのではないか。
内部過程でしかないから、外側からはわからない。

 これはすごい発想だ。天才の直観であって何の根拠もないと思うが、人類史上初めて意識の生成過程を射当てたのかもしれない。この世にスタンドアロンで動いているものは何もなく、すべては関連し合っている。それを悟ったゴータマ・ブッダには意識はないのだろう。

 活字文化の固定性は自我なので、近代を超えるには、仏教の無自性が助けになるが、それは自我の雲散霧消なので、人間はここ数百年、ずっと頭ではわかっていても気持ちとして避けてきた。どんなインテリでもだ。しかしこれから先の数百年はそういうわけにはいくまい。
 というわけで、やはり何と言っても花田清輝だ。全集第8巻を読む。代表作と言ってもいい『近代の超克』が入っている巻だが、時評も面白い。


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 私は寺を預かる者として、もちろん今でいうグリーフケアなど、死別の当事者の感情を個人を超えた大きな文脈の中に位置づける宗教儀礼の役割ということも考えている。しかしそれは所詮は非日常なので、メインにはなりようがない。そんなに毎日、親族や友人が死ぬわけではないからだ。葬儀や通夜も非日常のこととして重要ではあるが、それらはあくまでも非常事態であって、本来は、宗教は日常を取り込むものでなければならない。たとえばお子さんを交通事故で亡くされて、それ以来一日も欠かさず厳粛な非日常の哀悼の中に生きている人ですら、お茶を飲んで一服するときなど、日常を過ごされることはあるだろう。日常は誰にでもある。宗教が非日常にしか関われないとすれば、仏作って魂入れずである。
 落語などは、日常に密着した、しかも宗教をその構成要素として多大に含む面白い文化というべきで、いろいろ参考になるのだろう。落語の濫觴は一七世紀の『醒睡笑』まで遡れ、そこでは坊主が笑いものにされている。現代まで連綿と続くステロタイプだ。昨今の宗教離れを鑑みれば、人格高邁な宗教者が必要だという理屈には、まったく賛成できない。それは人格高邁などということがありえないという人間の不完全さだけでなく、高邁な宗教者に接して窮屈に感じる庶民感情をわかっていないという意味でも、人間を理解していない者の愚論だ。笑いものにされる坊主が日常生活の一部として存在する社会、それを呼び戻すほうが、昨今の宗教離れへの処方箋となりうる。


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●共催者名や企業ロゴ、参加劇団やエリアマップの印刷されたパンフを見て、この規模の演劇祭をゼロからつくっていくことの大変さを想像してめまいがする。おそらく最初は何をやったらいいかサッパリわからない状態に耐えていたのではないか。範例はないし、他の成功事例は条件が違いすぎて参考にならない。新しい価値観を提示して、それを周囲に浸透させていくことから始めないといけない。今年はエリア毎のミニチラシを作ったり、チェキを導入したりしていた。アフタートークが多いのも今年の方針だと思う。ほかにも私が気づいていない新工夫はたくさんあると思う。前回の閉幕後すぐ反省点を洗い出して改良方法と修正案について何度もミーティングを重ねて一年間かけて準備してきたという感じがする。4年目にして、2023年のコロナ明けのあのときがやっと離陸だったと、あとから振り返られる年になるのではないか。

●Q / 市原佐都子『弱法師』はとてもよかった。何がよかったかというと、わかりやすい万人向けの音楽劇なのがよかった。あのノイズ琵琶の人(西原鶴真)が凄い。語り(原サチコ)が上手い。初めて市原佐都子の作品世界を十全に伝える媒介者が現れたと思った。本作の言葉の密度は高くない。大量の言葉が迫ってきて消化しきれないというものでは全然ない。だからもう一度観たい。(わからないから何度も観たという人もいたようだが、もちろん感じ方は自由だが、しかし本音を言えば、この作品のどこがわからないのか小一時間問い詰めたい気がしないでもない。一度観ただけではわからないから何度も観るのではなく、好きな音楽を何度も聴きたくなるように何度も観たいと思うのがこの作品と向き合う態度の標準ではなかろうか。)当日券が出るというので観劇スケジュールを調整したら、残念ながら、範宙遊泳『バナナの花は食べられる』を諦めない限り再見できないことが判明した。それで直前まで迷っていた。範宙遊泳というシアターコレクティブを私はよく知らないし、三時間を超える長丁場もしんどそうだし、YouTubeで無料公開されている冒頭部分のセリフだけで判断する限り、あまり好みではない。『弱法師』の掲載された「悲劇喜劇」2023年9月号を入手したので、それを参照しながら今度は下手側でノイズボックスの操作や琵琶演奏をよく見てみたい。そう決めて、掲載ページの拡大コピーも用意していた。しかし、やはり当日券だと席はままならないだろうし、範宙遊泳のほうも絶賛のレビューが散見されたので、千円とはいえ、せっかく買っているチケットを無駄にするのはよくないと思い直した。結果として『バナナの花は食べられる』は素晴らしい作品だった。これを干そうとしていたなんて、知らないというのは恐ろしい。

●知念大地+岩田奎『五体』出石・堀本畳店。肉体と言葉という、全く相反するものの衝突と共存。岩田奎の言葉が圧倒的によかった。終演後、おはぎとお茶がでるというので、この時間にヘヴィーな糖質とカフェインを摂るのはいやだったので早々に退出。会場は普通の日本家屋の八畳の間を二つぶち抜いてステージと客席にし、床の間にプロジェクターで即興俳句を投影。スクリーン代わりの模造紙はなぜか破れていた。下手側に廊下と縁側、庭には途中で切れている花道のような、あるいは屋根のない能舞台の橋掛りのような、なんとも言いようのないステージがとってつけられている。そこで知念大地は佇み、屋内に入ってきて脱衣する。しかし天気もいいし、夕暮れの美しい時刻だったし、庭に突き出たこのステージにいるあいだの、外気に触れているときから一糸まとわぬ姿でいたほうが美しかったのではないか。

●Room Kids『Tranquilizer』は今のところ本演劇祭のベストアクト。稽古堂3Fの無機的な一室で、壁一面に映像を投影しての単独パフォーマンス。その場でコードを書くわけではないが、画面上にコードを映してその場でコンパイルし、おそらくその結果として、ジャグリングの玉の軌跡がさまざまな模様を描く。


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●ここ数日のあいだに目にした文章の中で、この一連のポストが一番深く心に突き刺さった。東京や大阪などの大都会で若者が家を買うのはあまり現実的ではないかもしれないが、地方だと話が違う。100万〜600万ぐらいで中古の家を買い、400万を改修費に充てれば、500万〜1,000万ぐらいで快適に住める家が手に入る。最近私は親から相続した築45年の家の一室を200万かけて改修した。どうも寒くてやりきれないと思っていたら、壁を剥がしてみると、そのままじかに骨組みだった。工事の方に「簡単な壁だなあ」と呆れられたが、四囲と床・天井の全面に断熱材を詰めてもらい、窓も二重サッシにして、はすかいに補強材を数本入れて、やっと地震で生き埋めになる心配のないまともな人間の住める部屋ができたと思う。激安物件ならそのくらいのことはしないといけないだろうが、一部屋ずつ時間をかけてやっていけばいいのだ。あまり金がなくても家を買うことができるという一点が居住地としての地方のアドバンテージで、これだけで、ほかの不便を天秤にかけても、地方移住が現実的な選択肢になる。そういう時代が来ていると思った。そもそも家の改修には時間がかかって楽しいので、これだけで一生遊べそうだし、余裕があれば完全防音にしたりして、中で何をやっているかわからない怪しげなフリースペースとして一般に開放することも考えられる。場所を持っているということは強い。とくに地方ではイベント開催に意欲のある人はいても融通の利く適切な会場が足りないことが少なくないように感じる。

●地方での家の購入を後押しする条件はリモートワークの普及、身寄りのない独居者が増えていること、どこの自治体も移住者を歓迎していて支援が手厚い、娯楽のない田舎でも動画配信サービスの充実などオンラインで充分楽しめる時代になった、等いろいろある。最後のオンラインで充分楽しめるということについて言えば、確かにそうだが、これだけだと物足りなく苦しいと思う人も多いだろう。いくらホームシアター設備に凝っても、またいくら孤独に音楽を聴いたり読書したり映画を観たりすることが好きな人でも、ずっとひとりだとつまらない。しかしその点に心配はいらない。私は田舎へUターン移住して一年足らずで直接会ったFacebookの友達が100人以上増えた。文化的なことに飢えている地方在住者だからこそ、読書会をやったり、上映会をやったり、その手のこぢんまりしたイベントは活発に開催されている。そういうところにはいわゆる「おまいつ」が居る。東京では考えられないことだろうが、田舎では、あまり活発に動き回らない出不精な者でも、ちょっとイベントへ参加していればすぐに同じ価値観をもった知り合いが複数できる。私に関して言えば、たまに会って喋る気心の知れた友人のひとりふたりでもいれば独居も全く苦にならない。
 

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前回『錯乱の論理』に言及したので以下のことはどうしても言っておかなければならない。この評論集のメインは「錯乱の論理」「赤ずきん」「笑の仮面」「童話考」「探偵小説論」「黄金分割」という六つの論考だが、講談社文芸文庫版『七・錯乱の論理・二つの世界』にはこの六つが六つとも収録されていない(!)。

●『七・錯乱の論理・二つの世界』という文庫本タイトルなのだから当然『七』と『錯乱の論理』と『二つの世界』を合わせて一冊にしたものだと思うだろう。ところが全然そうではないということだ。こんなことが起こった理由を推測して文句を言うと口汚くなってしまうので何も言わないことにする。

●回避方法だけ記す。講談社版の全集は戦時中に出版された『自明の理』になっている。青木書店版の『新編・錯乱の論理』は入手しにくいし用紙が粗悪で文字も小さく読みにくい。未来社版の『花田清輝著作集第1巻 復興期の精神・錯乱の論理』を買えばすべて解決する。古本で1,000円以下で買える。

●未来社版著作集は生前の著者の確認を経ただけあって非常によくできている。あとがきが全廃されているのが難点と言えば難点だ。第5巻の「仮面と顔」などはこの著作集オリジナルの人物論アンソロジーである。


なにしろ、かれは、小生の『錯乱の論理』を一読しただけで隅から隅まで、了解したのですからねえ。それだけでも、どんなにかれが頭のいい男だか、おわかりになるはずです。あの本の中で小生はアヴァンギャルド芸術は、資本主義没落期の頽廃芸術であり、その創作方法は、徹頭徹尾、形式論理的なものであることを、みごとに証明しておいたつもりでしたが———むろん、そんなことは、かれにとって、自明の事実だったのです。 (花田清輝「空間人間」) 
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 最近とみに難しい本が読めなくなってきたと感じるので、これはいかんと思い、PARAのオンライン説明会に参加した。参加者は五、六名だったが、夜分遅い時間に長時間だったにもかかわらず、ひとりの離脱者も出ることなく完走していた。
 若い頃はマルクスとフロイトだけでいいじゃん、と思っていた。この両者の変奏でないような思想はないし、もしあったとしても小物に過ぎない。しかし人生が本当に100年だとすれば、その前半を思想的には怠惰な保守派として過ごし、ようやく後半になって勤勉な革新派たらんとしている自分は、五十を過ぎて筋肉へ向かう人のようだ。後悔はしていない。
 せめて『錯乱の論理』『復興期の精神』『アヴァンギャルド芸術』程度には、何が書いてあるか一読でわかるものを読むのでないと、時間がいくらあっても足りないと思っていた自分は若かった。頭脳の筋トレのために、多少ムダでも、負荷をかけないといけない。
 田舎の寺を預かっていて、土地に縛られているので、過疎地でのまちづくり、コミュニティづくりに興味があり、その関連での現代アートに興味がある。また、ここ兵庫県豊岡市は平田オリザが移住してきて演劇を振興している土地柄なので、せっかくだから演劇を語る言葉を持ちたいとも思う。

 日本は先進国で唯一、いや世界でも例がないほどに、劇場がなく、貸し小屋しかない。国立劇場が使用料を取ってレンタルスペースになっているような国は日本しかない。これがいかに異常なことか、美術館を例にとって考えてみればわかる。もしも美術館が展示スペースを提供するだけで、常設展もコレクションも持たなかったら、そんな単なる「場所貸し屋」は文化の担い手でも何でもあるまい。——— 岸井さんが適切な比喩で説明してくれた。PARAは劇場たらんとしているが、世界的には、劇場は文化の保存・共有という役割を担う施設として、たいていの場合、学校を持っている。ただ日本ではまだそういう劇場のあり方のスタンダードがないので、モデルの構築を目指している。

 大都市だけでなく、地方にも適用できるモデルであってほしいと思う。



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●小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』オープンリハーサル(於・KIAC)を観に行こうと思ったのは紹介文があまりにも魅力的だったからだ。こういうものを読むとSNSによるドキュメンテーションの重要性が否応なく身に迫ってきて反省を強いられる。

2022年7月からの1年間、「クリエーションを前提としたクリエーションを実践しないチーム」として対話や情報共有を行いながら集団の言葉を培ってきたチームメンバーたちがそれぞれの言葉と身体を携えて城崎に集まる。
舞台芸術の新しい形を探究し続けるスペースノットブランクが、集団/集団の言葉/言葉の意味の侵入をテーマに創作する新作のクリエーション。
舞台芸術の歴史上大きな影響力を持つイギリスの劇作家ウイリアム・シェイクスピアの戯曲に登場するヨーロッパのムクドリが、アメリカで増殖し社会問題となった都市伝説を手掛かりに、言葉の持つ権力性や舞台への侵入をメタ的に描く。

●19世紀のアマチュア鳥類学者ユージン・シーフリンがシェイクスピア演劇に登場する鳥をすべてアメリカへ導入しようとして生態系をメチャメチャにしてしまったエピソードは、エコロジーや環境保護の文脈でよく語られる有名なものらしい。しかし、1890年にニューヨーク市のセントラルパークで100羽のムクドリが放たれ、破壊的な外来種となって甚大な農業被害をもたらした、という100年以上まことしやかに語られてきたこの話は事実ではなく、ほぼ完全に創作で、都市伝説に過ぎないものらしい。なんという権力性、侵襲性だろうか。この伝説を手がかりにした公開クリエーションなら、そりゃあ舞台上の言葉の現実世界への影響、また逆に現実世界の舞台上の言葉への影響を、シェイクスピアの権威もまじえた社会性の中で鋭く示すことができるだろう。

●・・・・・・観劇の前に過剰な期待をする習慣はないので幻滅もしないが、それにしても理解のとっかかりがなかった。シェイクスピアのシェの字もない。ゼロからの創作が始まったばかりで形をなしていないだけかもしれないが、まだスカスカである。これが最終的にいわゆる上演の形態にまで練り上げられていくのだろうか?

●平田オリザの芝居のように複数箇所で同時に発話されていても、緻密な計算があるのではなく、みんな適当に自分のことをやっているだけに見えた。演者も作者もまったりしていたが、観るほうはまったりどころではなく、入退室自由だとは言われていたけれど、とてもそんな雰囲気ではなく、物音を立てるのも憚られるような不思議な緊張感があった。(もっとも一度退出して同じ会場の別フロアで行われている全然別個の芝居を観に行っていた。girls vol.3『MAMA』脚本・演出:蛭田絵里香。これはとてもよかったが、市原佐都子も観ていたので、やるほうはさぞやりにくいんじゃないかとヒヤヒヤした。パクりとは言わないが影響があまりにもあからさますぎる。コロスもある。カーテンを開けて窓外の緑樹や外光や蝉の声を効果的に使っていたが、あれは夜の部だとどうやったのだろうか。)

●この公開リハーサル以外にも滞在中はずっとクリエーションは行われているのだろうから、日々変貌していき、一週間後の第二回の公開リハーサルでは第一回のそれとは似ても似つかないものが現前するのかもしれない。そのギャップが面白いのかもしれない。ピナ・バウシュの創作手法を使っていると聞いた。自動的に創られていくようになりたい(意訳)とも。ということは、観客にとって物音を立てるのも憚られるようなあの変な緊張感は緩和されるということだろうか。コレクティブ名の「スペースノットブランク」は「空間は白紙ではない」と解釈でき、既存の空間や状況に対する予め存在する歴史や背景、価値観についての問題提起を意味している可能性がある。


附記:7月30日(日)の第二回オープンリハーサルへは行けなかったが、8月6日(日)のワークインプログレス(滞在成果発表)を観に行くことができた。案の定というべきか、意外というべきか、クリエーションの過程そのものを見せるリハーサルとは異なり、ちゃんと上演の形態になっていた。しかも、すごく面白かった。変化球的・キワモノ的に面白いのではなく、正統的な舞台作品としてだ。とくにほぼ最後に登場した永山由里恵が観客に背を向けて熱演しているところをほかの出演者たちが椅子に座ってニヤニヤ眺めているところなどは今思い出しても最高である。
 面白さはこの作品の制作過程に張り巡らされた意味や文脈を知らなくても、舞台単体から伝わってくる態のもので、それがいいといえばいいのだろうが、そう言い切ることには若干の躊躇いがないでもない。作家は現代の芸術家として当然文脈含めて作品だと思っているはずなので、文脈ぬきで面白いというのが正当な評価かどうか疑問だからだ。でも本当に文脈ぬきで面白かった。最初から最後まで目を離せなかったし誰も寝ていなかった。この作品がそのまま戯曲として出版されたら買って読みたい。
 舞台の背後にある厖大な個人史や集団交渉史は舞台の糧となってはいても作品に現れることなく、氷山の目に見えない部分として水没し、目に見える部分を支えている。目に見える部分に関してだけ言うと、ずいぶん現実世界と舞台とのあいだの風通しの良いものだった。時間的に限られたあの上演の場だけで現実世界と舞台の両者が相互に侵入し合っていたのが面白い。役者を舞台へ喚び上げることにもいちいち抵抗と葛藤があった。
 今回の滞在成果発表はワークインプログレスであって最終形態ではない。公式サイトに拠れば最終的には来年の1月に吉祥寺シアターでダンス作品(?)として結実するらしい。それまでのあいだ、クリエーションはどうするのか、全然わからない。(2022年7月から2024年1月までの、上演期間1年半の作品というわけではないらしい。)
 スペースノットブランクはスペノという略称が人口に膾炙しているようで、有名なユニットらしいが、私は知らなかったし、その作品を初めて観た。ほかの作品も観てみたいと思った。かなり多作で、しかもそのすべてが全然違うらしい。(2023/08/09)
 
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●ヘンリー・コスター監督『オーケストラの少女』(原題 One Hundred Men and a Girl 1937)を観てみたのだが、これが本当に心が洗われるようないい映画だった。絵空事と言われればそれまでだが、ギスギスした罵倒と揚げ足取りの蔓延る現代ネット社会に毎日接していると、こういう90年前のおとぎ噺が一服の清涼剤のようだ。

●ほかに最近観て良かった映画は、だいたい観た順で、
①吉村公三郎監督『混血児リカ ハマぐれ子守唄』(1973)
②山本薩夫監督『戦争と人間』第一部・第二部・完結編(1970・1971・1973)
③原田眞人監督『燃えよ剣』(2020)
④金子文紀監督『木更津キャッツアイ 日本シリーズ』(2003)、同『ワールドシリーズ』(2006)
⑤ジャン=リュック・ゴダール監督『イメージの本』(2018)
⑥川島雄三監督『幕末太陽傳』(1957)
⑦黒澤明監督『天国と地獄』(1963)
⑧エリア・カザン監督『欲望という名の電車』(1951)
⑨ノーマン・Z・マクロード監督『虹を掴む男』(1947)
⑩斎藤寅次郎監督『東京五人男』(1945)

●半分以上が初見だ。①は音楽が庵野秀明のキューティーハニーだった。②は昔ACTミニシアターのオールナイトで観たはずだが殆ど忘れていて、こんなに面白かったのかと驚いた。こちらの日中戦争や満州への歴史的知識が当時と今とでは比べものにならないせいもある。芦田伸介演じる財閥のドンが料亭の女将と体の関係にあり、ある夜の誘い文句が「どうだ、久し振りに一汗かかんか」なのが凄い。③は岡田准一が出ているので殺陣がいいだろうと思って観てみたらほんとによかった。細部の演出も冴えていた。「あなたは土方さんの想い人でしょう?」と女の自尊心をくすぐったり、懐中時計を「忘れ物・・・・・」と言わせたり、求められた唇を逸らせたり。このへんのつながりで④や⑥(『タイガー&ドラゴン』からの古典落語連想)を再見してみた。⑦は最後の山崎努の演技が圧巻だった。⑨はダニー・ケイがとんでもなく芸達者なのはわかった。⑩はYouTubeで観た。のんき節でイモの配給に並ぶ婦人を参政権の投票のときもこれほど並んでくれればいいのにと揶揄するところなどが圧巻(28:45頃から)。色川武大の『なつかしい芸人たち』の高勢実乗の章に、

 敗戦直後の焼跡の映画「東京五人男」で、ヤミ太りの百姓になって出てきたが、モーニング姿で肥桶をかついでいる彼が、まだ眼に残っている。

とあったのに興味を惹かれて観てみた。


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