●中長期的に組織を存続させていこうと思うなら、どうしても人に依存してしまうことを避けがたい。寺山修司が死んだあとの天井桟敷は求心力を失って瓦解した。光澤寺住職が死んだらあの宿坊はどうなるのだろう。

●しかし自分が死んだらこの組織は終わりだ、では話にならない。たとえば拙寺も、私が死んでも、小さいが個性的な寺として一粒の存在感をもって存続していきたい。そのためには、他人を取り込むことと、本質的な属性に根ざすことだ。後者はたとえば立地条件だ。豊岡市泉町のこの地にあるという条件は変えられない、つまり住民をも取り込むということで、前者にも関わることだ。

●千年続けるためにはどうすればいいか。一つの結論は、ここに能舞台を作ることだ。能はまがりなりにも650年続いてきた芸能だ。一朝一夕になくなるとは思えない。しかも死者の声に耳を傾けることをその本質としている。仏教寺院とは相性がいい。しかも、すぐ作るのではなく、能舞台を作りたいと、少なくとも50年間言い続け、その志を持っていること自体を広報の中身にしてしまう。つまり千年後のことだから現在生きているわれわれには関係がないということではない。逆だ。千年続けたいと表明することで、現在のあり方のことを言っている。

●損益計算や効率性を指針にしての意思決定がなされるなら、すべての状況はピタリと「廃業」を指し示している。そこへ行かないとすれば、意思決定のためのよりどころを損益計算や効率性以外に求めなければならない。それは何か。維持していくことのメリットとデメリットを秤にかけて、あらゆる点でデメリットのほうが上回ったとしても、それでも継続することを選ぶだろう。それはなぜか。

●先日、安田登『日本人の身体』を読んで話し合う読書会に参加してきた。参加者は私を含めて五名だった。数十人規模の参加者を集めるイベントとはひと味違った贅沢さが感じられた。本を読んできていない参加者の方に対して、この安田登の著書の論点を説明する中で、身体と心が分離していない、主客未分の状態を保っているのが日本人の身体観の特徴だ、と言い、「西洋」では近代的自我を確立する際に主客を引き裂いたのだ、という意味のことを言った。それに対する彼女の疑問が鋭い。じゃあ、その前はどうだったの? キリスト教が支配していた中世ヨーロッパではここで「日本人の身体」と言われているような主客未分の状態があったんじゃないの?

●その通り! しかし私に答えることができたのは「キリスト教の神に包まれて世界と自分が分かちがたく溶け合っている状態は日本的な主客未分状態とは似て非なるものなんじゃないかなあ」というような曖昧なものだった。

●帰宅後、マーティン・スコセッシ監督『キング・オブ・コメディ』(1963)見る。良い。これがデニーロか。テレビの視聴者はわれわれの芸が息を吸うように簡単なものだと思っている。それは血のにじむような努力の果てに獲得した技術なのに。