楽田城、岩崎山砦、そして禁断のあの神社へ | おおとり駆の城日記

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愛知県犬山市の楽田城跡に行ってきました。

楽田城の築城年代は定かではありませんが、信長の尾張平定後には織田氏の城として守将がおかれていたのは間違いないといわれています。
その楽田城が歴史の表舞台に登場するのは天正12年(1584)小牧・長久手の合戦です。
賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を破った羽柴秀吉は信長の後継者として、天下取りに向けまさに日の出の勢い。それを快く思わない徳川家康は信長の次男織田信雄と結び挙兵します。
小牧山に陣を張った家康に対し、羽柴秀吉がここ楽田城に本陣を構え対峙します。しかし、長久手で大きな合戦があった以外はこう着状態が続き、楽田城自体は最後まで攻防戦を経験することなく両者は講和します。合戦後、楽田城は廃城となりました。

ところで、もう一つお城マニアの間で楽田城の名前が知られていることとして、この城には日本最初の天守が置かれたという伝承があるのです。
小瀬甫庵という人が記した「遺老物語」に永禄元年に高さ二間(約5m程)の垣(壇)を築いて、その上に五間七間の二重の櫓(殿守)を建てたと記されています。その信憑性はともかく、これが今日の天守に通じる最も古い記録とされているのです。

現在、城跡は楽田小学校の敷地となり、遺構はほぼ存在しません。昭和50年代までは天守台の遺構らしき土台のほかに土塁や堀も残っていたといいますが、小学校の運動場の拡張工事で完全に消滅してしまったそうです。いまは唯一小学校の校門前に石碑がぽつりと建つのみです。


また、一帯は城山という地名らしいですが、あまり高低差を感じさせるものはありません。


あまりにも何もなかった楽田城から小牧市の岩崎山砦まで足を伸ばしました。
ここも小牧・長久手の合戦時に秀吉方の陣が置かれた場所です。
この砦を守っていたのは、稲葉一鉄とその子・貞通、重通と孫の典通。
稲葉一鉄は最初斎藤道三の家臣で、美濃三人衆のひとりといわれた人物。のちに信長、そして秀吉に仕えます。
ただ、この砦も戦場となることはなく、合戦終了後は廃城となりました。

岩崎山は標高55m程しかありませんが、まわりが平地なので、家康が陣を構えた小牧山がよく望めます。



この岩崎山砦があった山からは、天然の良質の石が産出され、信長が小牧山城の石垣を築いたときにはここから石を運び、後に名古屋城が築かれた時も岩崎山から石垣用の石が運ばれたといわれています。

ここも城跡らしい遺構はありませんが、現在は熊野神社があり、天然記念物にも指定されている巨大な五枚岩があることから、岩の産地だったことがわかります。




最後にお城ではありませんが、この地域でおすすめのスポットがこちら。


田縣(たがた)神社です。

一見普通の神社です。
五穀豊穣と子宝の神様として有名です。
そしてご神体がなんと男性のシンボルなのです。あっちにもこっちにも木や石で作った巨大なモノが鎮座しているので知らない人(特に若い女性)を連れて行くときは注意が必要です。ただこれだけ堂々と飾られていると不思議といやらしさは感じません。



毎年3月15日に行われる豊年祭は、直径60cm、長さ2.5mのヒノキ製の巨大な男茎型の神輿をかつぐお祭りで、天下の奇祭といわれています。近年は外国人観光客の人も多いようです。

ちなみに近所には大県神社というのもあります。こちらは女性のシンボルがご神体の神社。ただし、見た目にはよくわかりません。


「玉さすり賽銭いれて珍となる」
冗談なのか、何か深いいわれがあるのか謎です。


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