富山城 | おおとり駆の城日記

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子供の頃からお城好き 今までに巡ったお城の感想 その他どうでもいい趣味のことなどあれこれ綴っていきます

城めぐりの旅、久しぶりの遠征です。
富山城は、天文12年(1543年)に越中国守護代の神保長職(じんぼ・ながもと)が築城したと言われています。
この地は越中国のほぼ中央に位置していて、飛騨と北陸道を結ぶ交通の要衝にあたることから、戦国時代は一向一揆勢、さらには越後の上杉謙信らの激しい争奪戦の舞台となりました。
天正10年(1582年)織田信長の家臣佐々成政が越中を与えられ、新たに富山城主となって、大規模な改修工事を行っています。
本能寺の変後、羽柴秀吉と対立した佐々成政は、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家につき敗戦後降伏しています。一旦許されるも、翌年の小牧・長久手の戦いでは再度秀吉を裏切り、徳川家康側につきますが、家康が秀吉と和睦したために成政は厳冬の飛騨山脈・立山山系を越えて浜松へと家康に再挙を促す旅に出ます。これが有名な「さらさら越え」ですが、結果は家康を翻意させることはできず、空しく富山に帰ります。
成政は、天正13年(1585年)8月、秀吉率いる10万の大軍に富山城を攻囲されて降伏し、その後越中一国は前田利長に与えられています。
前田利長は、関ヶ原の合戦後には弟の利常に跡を譲って富山城に隠居し城を大改修していますが、慶長14年(1609年)に城が火災で焼失したため、高岡城を築いて移り住み、富山城には津田刑部義忠が城代として入っています。しかし元和元年(1615)の一国一城令で廃城となります。
その後さらに分藩に伴い富山藩が成立し、前田利次が初代藩主となり再建、以後富山前田氏13代の居城として明治維新を迎えています。

城主が佐々成政の時代「黒百合伝説」というのも伝えられています。
成政には早百合という美しい側室がいましたが、成政が失意の中、浜松から富山に戻ったとき留守中に小百合姫が小姓と不義密通をしているという噂を耳にし、激怒した成政は城の外堀である神通川の畔で早百合を無残にも切り殺してしまいます。
早百合は死の直前に「立山に黒百合咲かば、佐々の家は滅しよう」と呪いの言葉を叫びました。

成政は富山城を取り上げられたのちに、秀吉に許され肥後に移っていますが、なんとか秀吉に取り入ろうと、秀吉の正室北の政所に白山から取り寄せた黒百合を送りました。北の政所は珍しい花であることを自慢しようと、淀君を茶会に招いたのですが、淀君はこの花が白山の黒百合であることを言い当ててしまい、北の政所は大変な恥をかくことになりました。
成政は恥をかかされた北の政所の恨みをかった上、領内の一揆の責任を取らされ切腹させられ、早百合の呪いの言葉通り、佐々成政はお家断絶となったというものです。

真偽のほどはともかく、ドラマチックな戦国の舞台になった城です。


模擬天守(富山市郷土博物館) 

佐々成政の時代には5層の天守が建てられたとする説もありますが、その後前田氏の時代に天守台は築いたものの実際には天守は築かれませんでした。
戦災にあった富山市街の復興事業を機に、昭和29年(1954年)に富山産業大博覧会が開催されています。その際に富山城祉に記念建築物として犬山城や松本城を参考に模擬天守が建設されました。これが戦後最初に建築された模擬天守となり、その後各地で復興天守や模擬天守が建設されるようになりました。模擬天守とはいえ、築後半世紀を超えた平成16年(2004年)には国の登録有形文化財に登録されています。確かに現在の富山の街並みによくマッチしています。


鏡石

富山城の本丸虎口には、6個の鏡石が使われています。中でも土橋から左手に配置されている巨石は、全長約3.6m、重量約6トン、面積は約5.8平方メートルと、かなり巨大なものです。


千歳御門
10代藩主前田利保が嘉永2年(1849年)に自身の隠居所として完成させた千歳御殿には豪華な能舞台が設けられていたといいます。御殿は現在は残っていませんが、御殿に隣接していた千歳御門が移築され、現存しています。


佐藤記念美術館
一見お城の櫓かと見間違うような建物が城址公園内にありました。佐藤美術館という施設で、東南アジアの古陶磁や日本の近世絵画など東洋の古美術が展示されています。


前田正甫銅像

この人は富山藩2代藩主ですが、なぜ佐々成政や前田利長の銅像ではないのか?と思いました。正甫が参勤交代で江戸城に登城した折、他の大名の腹痛を「反魂丹」で治し、以来、諸国に行商させたのが、富山の薬売りの始まりといわれているそうです。なるほど。



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