和歌山城訪問レポートその2です。
西の丸から二の丸へ
御橋廊下(おはしろうか)
藩主が二の丸と西の丸を行き来するためにかけられた橋です。
外から見えないように壁と屋根が設けられ、
一般的には「御廊下橋」
二の丸と西の丸の高さが違うので斜めになっているのが特徴ですが
平成18年(2006年)に復元されたものです。
御橋廊下内部
中は靴を脱いで歩くことができます。
御橋廊下の中から天守を見上げます。
二の丸
前述のとおり、当初は本丸御殿が山上にありましたが、
二の丸御殿は藩の公式行事の場である「表」、藩主の公邸である「
そう、和歌山城にも「大奥」があったのです!
二の丸御殿の一部は明治18年に大阪城内(天守の正面)
大手門
紀州徳川家55万石の大手門としては意外と小さい印象を受けます
当初は市之橋御門とよばれていましたが、寛政8年(1796年)
現在の門は昭和57年(1982年)に再建されたものです。
伏虎像
大手門からまっすぐ入ったところに虎が伏せている像があります。
和歌山城は別名を虎伏城といい、
和歌山城の石垣
和歌山城では大きく3つの時代(豊臣政権時代、浅野氏時代、
大手門から入った巨大な桝形虎口では切込ハギ(左)と打込ハギ(
松の丸櫓高石垣
岡口門から入ってすぐ目につくのがこの高石垣。
まるで富士山のような圧倒的な迫力でそびえ立っています。
初代頼宣が紀州富士(龍門山)を眺め、
岡口門
南東にある立派な櫓門です。築城時はここが大手門でしたが、浅野氏の途中から搦手門(裏門)となりました。
この岡口門と西側の追廻門は空襲でも焼けずに残った数少ない江戸
東堀
和歌山城には西堀・北堀・東堀の3つの水堀が残っていますが、この東堀が最も広くなっています。
時鐘堂
三年坂通りを挟んで小高い丘の上にあります。
徳川吉宗公が紀州藩主だった正徳2 年(1712)に建てられました。
時刻や非常事態を城下に知らせる役割のあった施設で、
徳川吉宗公像
ご存じ「暴れん坊将軍」
県立美術館の前に建っています。
父と2人の兄の死後、
初代将軍・家康のころの政治を理想とし、質素倹約をすすめ、
ちなみにあの有名な目安箱の制度などはすでに紀州藩主時代に取り
また、吉宗は江戸城の大奥の改革にも手を付け、
理由は「美人は他に嫁ぎ先が決まるだろうから暇をとらす」
現代だったら大問題ですね。
今回紹介できませんでしたが、
規模はさほど大きくなく、入園料も無料ですが、
戦災で遺構がほとんど失われた和歌山城、
一日かけてじっくりと見る価値があります。
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