2018年10月14日日曜日

やっぱりね、常日頃から「こんな時はどうするか」と考えることは大切だよね


またまた更新間隔があいてしまった。別に、特に忙しい方じゃないのに(ってゆーか、思いっきり暇だろ>自分)、何か気がつくと時間が無くなっている。昔から時間の使い方がとことん下手なヤツ、それが私、レックスだ。ま、要はだらだら無駄な時間を過ごしている、だらけるのが好きってことなんだけど。

 

それにしても、昨日から急に寒くなった。一昨日はけっこう蒸し暑くて、出歩いたら汗が出て来たんだけどね。実は一昨日、久々にショッピングに行ったのだ、ショッピングですよ、ショッピング!? いや~、久々ですな、しま〇ら以外でお買い物するのは。今履いているスニーカーがすっかりボロボロになってしまったのでね。実はレックス、非常にものもちが良い。一つのものを長く長く使い続ける、それがアタシの主義。
しかしさすがに10年以上も履けばすっかり形は崩れるし、買った当時の見る影もない。これでも買った当時はけっこう高級品だったんだけどね、当時はアタシもまだ一応正社員だったからさ。
 

が、今はしがないパート暮らしの身、それも週3日勤務の薄給者、ここはやっぱり気になるのはお値段だ。それでも何とか値段も予算内、形も気に入ったものを見つけることができた。今はスニーカーが流行っていて、いろんなものが出ているのが嬉しいな。

で、スニーカーを買う時に、

(以前履いていたものは)どれぐらいお履きなんですか? 数年といったところですか?」

 とお店のお兄さんに聞かれて、さすがに、

「何の、軽く10年は超えますぜ、お兄さん」

 とは言えなかったよ・・・・・・(私にも一応まだ見栄がある)。

 

ま、それはともかく。





今回の母の入院騒ぎで感じたことがいくつかある。1つは、以前にも書いたが、高齢者の入院はたとえたった数日だとしても、後戻りのできない後退を余儀なくされる場合がある、ということ。確実にこれまでよりも身体が衰え、しかも元に戻らない。うちの母もたった15日間の入院だったが、未だにその影響が続いている。おそらくこれからもずっと続くだろう。

 

そして、もう一つ。つくづく感じ入ったのは、どのような医療的なケアを期待するのか、どこまで治療、あるいは検査するのか、日頃からシミュレーションしておいた方がいい、ということだ。

 

今回の入院時、担当医師より、

「高齢者の場合、一気に最悪の事態になることもあります。そうならないようこちらもできるだけのことをさせていただきますが、一応そのことを念頭に置いておいてください」

 と言われた。これは、別に脅しのために言っているわけではなく、向こうも仕事だから現実としてこんなこともありますよ、という提起だ。

その時に考えたのは、果たして母が口から栄養を摂取できなくなった場合、どうするか、ということだった。

その時点で、口からモノを食べることは禁止されていた。当然栄養は点滴頼みになるのだが、それがずっと続いたらどうなるのか・・・・・。頭の中に、「胃瘻」の2文字がグルグル回ってしまったよ。

 

以前から私と姉との間には、

「もう年だし、手術できるだけの体力も無いし、身体に負担のかかる検査はしない。治療は徹底的に対処療法で。痛みや不快感を取り除くことに重点を置く。点滴まではするが、胃瘻はしない。口から食べられなくなったら、その時は母の寿命と考える」

 という申し合わせが出来ていた。

 

しかし、いざその現実を目の前に突き付けられると、人間はあたふたしてしまう。ただでさえ、急の入院ということで気が動転しているのだ。そこで何か重大な決定を迫られたら、果たして冷静な判断が下せるだろうか。

例えば、胃瘻をすれば確実にあと何年かは生きられる、と分かっているのに、

「それはやめて下さい」

 と言えるだろうか、子供として。

 

本当にいろいろ考えてしまったよ。今回は幸い口から食べられるようになったし、思ったより早く退院できたし、重大な決定を迫られる場面も無かったのだが、やはりいざと言う時のために、自分の中で様々な場面を想定して、シミュレーションしておくべきだと痛感した。人間、いざとなると冷静な判断を下すのは中々に難しいものだ。

 

誤解して欲しくないのは、私は胃瘻がいけないと言っているのではない。胃瘻をして良かった、と思っている介護家族の方もたくさんいることだろう。そうではなく、気が動転したり、その場の雰囲気にのまれたりして、不本意な決定を下すことが問題なのだ。

 

ただでさえ介護とは後悔の連続である。

「何で、あの時あんなことを言ったのか。どうしてこうしてやらなかったのか。あんなことをしたのか」

 後悔のない介護なんて、無い。そこへ、意に沿わない決定を下してしまうと、後になってそれがズシッと響いてきてしまう。

 

また、私は介護とは何より介護者の利益を優先するべきだと考えている。自分が精神的にも肉体的にも劣悪な環境に居て、良い介護なぞできるわけがない。これは、家族であっても、また仕事として介護に従事している場合であっても同じである。介護者あっての被介護者だ。周りの意見に惑わされることなく、自分の意思を尊重してほしいし、そうすべきだと思っている。それにはやはり日頃から、このような場面に遭遇したらどうするか、というシミュレーションをしておくことは大切である。

 

それともう一つ。自分以外の家族との意見調整も忘れずにしておく必要がある。ウチの場合は私と姉の意見はだいたい一致しているし、姉はキーパーソンである私の意思を尊重してくれている。それでも、いざとなるとやはり、

「どうしてそうしたの!?」

 ということが出てくるかもしれない。ましてや、日頃から意思の疎通ができていないと、必ず、

「何であんなこと決めたんだ!?」

 という人間が出てくる。これは、介護者にとって何よりつらいことだ。だから、日頃から何かにつけて「自分はこういう時はこうするつもりだ」「こうなったら、こうしようと思っている」とアピールしておこう。もちろん、きちんと話し合いが出来れば、それが一番良い。

 

「備えあれば憂いなし」は何事にも通じる真理なのだなぁ、と思う今日この頃である。

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