カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

教会は「完全な社会」か ー 岩島師教会論18(学びあいの会)

2020-11-25 21:04:52 | 教会


第18章 宗教改革と反宗教改革

 本章は岩島師の宗教改革論だが、師は宗教改革の歴史的経緯を述べているわけではない。あくまで教会論からみての宗教改革の評価が中心になっている(1)。

Ⅰ ルターの教会観

ルターの教会観は思想的にはアウグスティヌスとオッカムのラインなのだという。どういうことか。
1 関係としての信仰という理解

 信仰は神からの働きかけで、「神の言葉」によって仲介される。人間は義人(神に向かう自己)にして罪人(自己に向かう自己)だが、信仰によって義と認められる。

2 教会

 教会は「見えざる教会」であり、聖者(義人)の交わりの場で、神のみが支配している。命令は霊的だという。教会の外的・地上的なものは非本質的である。見えない教会を見えるようにしている徴は「言葉と秘跡」だという。信徒祭司職をみとめる(万人祭司説)。特別の祭司職も認めるが、共同体全体からの公的委任以上のものではないとした。
 つまり、神の言葉(福音)が教会であるという説明で、福音が説かれなければ教会ではないということになる。ここでは使徒や伝承や典礼は二次的なものになる。

Ⅱ その後の発展

1 アウグスブルク信仰告白 Augsburger Bekenntnis

 ルター派最初の信仰告白文書(2)。1530年に神聖ローマ皇帝カール5世によって召集されたアウグスブルク帝国議会で、メランヒトンがルターと相談して急遽起草されたという。この信仰告白はルター派だけではなくプロテスタント全体にとって重要な旗印となる。ドイツ文とラテン文があるという。1555年のアウグスブルク宗教和議によって帝国法上も公認される。内容は2部構成で、教理と教会論だが、聖書中心のプロテスタント信仰が表明されているという。特に「義認」が強調されているようだ。「見えざる教会」という表現は回避されており、「見える教会」とは全信徒の集まりで、福音が説教され、秘跡が与えられれば充分だとされている。 
全体としてローマ批判のトーンは低く、カトリック側からの評価もそれほど否定的ではないようだ。
 
2 カルヴァン Jean Calvin (1509-64)

 フランスの宗教改革者。ルターの立場から離れていく。カルヴァンの思想はフランス・ユマニスム(人文主義)(3)の方法を用いた神中心主義だという。かれの改革の特徴は、思想だけではなく、教えを教会組織や市民生活全般にわたる実践に結びつけたことにあるという。1536年に家族共々ストラスプールに亡命しようとするが方針を変えてジュネーブでの宗教改革運動に参加する。これは失敗し、ストラスプールで3年過ごす。教会の本質は選ばれた者の見えざる一致だと説く。1541年に請われてジュネーブに戻り、教会の革新、市政の改革を始める。フランス語圏の宗教改革にも乗り出す。1959年には教会は見えるもの、外的説教で立てられるものと説く。説教者は神のみ言葉の器官にすぎないとした。

Ⅲ プロテスタンティズムの神学的評価

1 主体的信仰と仲介構造の否定

 プロテスタンティズムは主体としての神の民の自己主張で、すべての信者が平等であると主張した。洗礼・福音・信仰のみが人を霊的にし、キリストの民とする。仲介構造である聖職者制度は否定する。

2 転換

 だが、改革の過程の早い時期に、伝承・教会・職制・教会規律の必要性に気づき、教えを転換する。

3 教会仲介構造の不足点

 教会の仲介機能を完全に否定したわけではなかったが、それでも不十分な点がいくつかあった。
①内容的に見れば、聖書を選択的に利用して自己の立場を正当化している。伝承も一面的な継承にとどまる。たとえば、カルヴァンはヒエロニムスに一方的に依存し、ペテロの役割・聖職の権威・公会議などを否定している。しかもルターの悲劇は教会が世俗的権力と癒着してしまったことであった。
②教皇中心の教会制度を否定するあまり、自らも認めていた教会の仲介機能(みことばの説教と秘跡)の過小評価に陥り、教会の本質的・歴史的性格を無視することになってしまった。

Ⅳ トリエント公会議(反宗教改革)

 やっとトリエント公会議が開かれる(1545-63)。ルターの95ヶ条(1517)から30年近く経っている。この公会議の目的は、宗教改革への対抗にあった。だがこの公会議では教会についてのまとまった教令は出なかった。教令は、信条・聖書と伝承・ヴルガタ訳と聖書解釈・原罪・義化・秘跡・聖体祭儀・聖人・贖宥について作成された。
 改革派の主張に対する反動的主張もあるが、全体として彼らの問題提起を否定せず、それを踏まえて論じている面もある。

①改革派:外的・法的・制度的面の否定、内的な教会理解。教会制度の改革は不可能と断じた
②トリエント:改革派の主張がいかに既存の教会制度と関係あるかを問うた。例えば義化の教令。

 教会論としてみると、トリエント公会議は制度としての教会理解の傾向が強く、その後のカトリック教会の教会説に影響を与えた。

 

(トリエント・ミサ)

 


Ⅴ ベラルミーノの「完全な社会」論

 ベラルミーノ Roberto Bellarmino (1542-1621)はイエズス会初期の神学者。枢機卿。あまり知られてはいないが、主著は『異端反駁』。対抗宗教改革ではプロテスタンティズムに対する論陣を張った。ガルカリズム(4)に対抗して、位階制と「完全な社会」 ソチエタス・ペルフェクタス(5) である教会を擁護した。ベラルミーノの教会論は制度としての教会論だ。「教会は同一のキリスト教信仰を同じ秘跡を通して一つにされた人々の共同体で、正統な牧者たるキリストの代理人ローマ教皇の下に存在する」と述べている。制度的教会論が中心で、主体としての神の民については語られない。もっぱら仲介構造としての教会が主題となっている。第一バチカン公会議までのその後の教会論に大きな影響を与えた。1930年に列聖されている。


 ということで、以上の岩島師の宗教改革論で注目したいのは、師が Reformation を宗教改革ではなく「教会改革」と訳したいと言っている点だ。トリエント公会議をそれなりに評価したいという考えのように理解したが、現在「トリエント・ミサ」をどのように評価するかは微妙な問題なのであまり深入りした議論はなされてはいない(6)。

 

1 わたしは個人的には教会の Counter Reformation  Gegenreformationen を師が「反宗教改革」と訳していることに違和感を感じる。現在は「対抗宗教改革」という訳語が定着していると思われる。反宗教改革という言葉遣いは「反動宗教改革」という言葉と連動して使われることが多いので使用は避けたいところだ。トリエント公会議は宗教改革を全面否定しているわけではない。本書が1980年代に刊行されているので、この訳語の採用は時代的制約なのか、師がなにか特定の意味を込めているのかはわからない。ちなみに、『岩波キリスト教辞典』(2008)には、索引に反宗教改革はあるが対抗宗教改革を参照するように指示され、説明はそこでなされている。また、『角川世界史辞典』(2007)は反宗教改革という項目名で説明がなされており、対抗宗教改革でひくと反宗教改革を参照するよう指示される。山川の世界史は対抗宗教改革で一貫しているようだ。
2 信仰告白 confession of faith とは公に表明された信仰内容の要約のこと。個人が信仰を自覚するとともに共同体(教会)への帰属を公けに宣言するもの。カトリックでは「使徒信条」または「ニケア・コンスタンチノープル信条」がミサの中で唱えられる。プロテスタントでは、1530年のルター派の「アウグスブルク信仰告白」、1646年の英国教会の「ウエストミンスター信仰告白」がよく知られている。
『祈りの手帳』ドン・ボスコ社(2002)
徳善義和『アウグスブルク信仰告白の解説』聖文舎(1979)
村川・袴田訳『ウエストミンスター信仰告白』一麦出版(2008)
3 ユマニスム(人文主義) humanism とは、ルネッサンス期の代表的な知的潮流。スコラ哲学の思弁に対抗して、人間中心の世俗的世界観を展開した。古代ギリシャ・ローマの文化を再興することで人間性を発見しようと、「もっと人間的な学問」をいわれた「人文学」の復興を目指したので人文主義と称されるようになったようだ。 
4 ガリカニスム gallicanisme とは、フランスの国家と教会が、宗教的にはローマの傘下にとどまりながらも教皇権からは距離をとり、自国の宗教的・政治的自立性を確保しようとする思想のこと。ガルカとはフランスの古名だ。フランス革命は聖職者を完全に国家に従属させ、ガルカニスムの究極の帰結だった。1905年の政教分離法の制定で実質的意味を失う。
5 教会が「完全な社会」 Perfect Society であるという考え方は16世紀から存在するが、特に19世紀から20世紀前半にかけて支配的な教会観となる(ピウス9世、レオ13世)。第一バチカン公会議の草案には、「教会は完全な社会。十全な立法権、司法権、刑罰権を有し、絶対的な独立を保っている」と書かれていて、教会が世俗の権力の下にあることを否定していた。国家は「自然的な完全なる社会」で、人間の生存に必要な領土と法、機構、主権を持つ(アリストテレス的・トマス的)が、教会は超自然的な生命の維持のために必要な仲介機能の総体であり、「超自然的な完全な社会」であるとした。こういう教会論は第一バチカン公会議(1869-70)で頂点に達する。そして第二バチカン公会議(1962-65)で乗り越えられていくことになる。我々は現在第二バチカン公会議後の世界に生きている。
6 「トリエント・ミサ」とは伝統的なラテン語ミサのこと。「特別形式のローマ典礼」と呼ばれることもある。現在通常行われている各国語を用いた対面式の「通常形式のローマ典礼」とは異なる。

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