不育症の記録 あなたの産声を

6度目の妊娠で第一子を出産しました。記録を残すことで誰かの助けになればと思います。
旧 不育症記録 虹の向こう側

32・決まっていたこと

2018年03月24日 | 3度目の妊娠
一年後、私はまたA先生の診察室にいました。
不育治療の注射を受けるためです。

この一年の大半は、前回の子供の出産予定日を待つのに使いました。
その間に不妊治療専門クリニックで残った卵管の側からの排卵があるかどうかだけ見てもらって、
もしそちら側からの排卵がないようなら出産予定日以降、体外受精をするよう準備していました。

結果、左右どちらからも排卵があるけど残った側からの排卵は少ないということでした。
不妊治療クリニックの先生は、これはじゃんけんのようなものだから10回連続同じ側ということももあり得る。
ある時期に、たまたまどちらかが多かったからといって、もう片方が排卵しにくいということではないと言っていました。

そこまでわかったところで出産予定日があって、その後卵管のない側の排卵が続いたのでそれを見逃していた時期でした。



「焦らなくていいんですよ」
あの時と同じ穏やかな先生。
「無理はしないでください。大丈夫ですよ」
先生の優しい言葉を聞いているうちに、突然私の心の中に言葉が出てきました。

先生、私はどうしてまだ生きてるんだろうって思うんです。

私だってあの時、私の子供たちに会いに行くチャンスだったのに。

私が助からないこともあり得るケースだったのに
どうして私だけまだ生きてるんだろうって、
でも先生や、C先生を始めとしたあちらの病院の先生方と看護師さんのことを思うと
そう考えてることが申し訳なくて、どうしていいかわからなくなるんです。


そのまま声に出してしまいそうになって、咄嗟に抑えました。
そして自分で自分の考えてることに驚きました。





私はあの時流産を待たせてくれなかった先生方と看護師さんたちのことが許せなかったんだ。
そして私をあの病院に行かせたA先生も。
私は流産を待ちたかった。
命が危ないと言われても、たとえ自分が助からなかったとしても、それでも。
私の子供を1人だけあの世に送り出して、自分だけが安全な場所で助かる保証を得るのが許せなかった。
子供が命を懸けるというなら私も、少なくとも同じだけのものを懸けたかった。


でもそれは、本当に可能なことだったでしょうか。
病院の先生方が、自然に流れてほしいからという私の希望をいれて
すぐに手術したら確実に助かる患者を見捨てることができたでしょうか。


帰りの電車の中で涙が溢れました。


できるわけがありません。
決まっていたのです。
不育治療を受けると決めた時から。
今回の子供を助けられないことも。
私が1人だけ生き残ってしまうことも。
A先生の判断が正しかったことは、もう私にもわかっています。

ただ、1ヶ月も一緒に過ごせたから、
1ヶ月も、このままずっと一緒にいられるかもしれないと思ってしまったから。
だから、諦めるのが辛かっただけ。


それだけです。