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【現代思想とジャーナリスト精神】

新たな戦前に抗する羅針盤

【新聞視写】池内了著『代替わり狂騒曲 天皇の政治利用に注意』全文と私見
櫻井 智志

Ⅰ: 序
左翼政党も左派知識人も深く言明していない領域を科学者が勇気をもって表明した。
池内了さんの『代替わり天皇の政治利用に注意』だ。だが新聞記事はネット上の電子版には無い。1960年是前後からどの新聞社も新聞購読の利益を企業広告の収益金額が上回る。巨大資本が広告を拒否したら、新聞社の経営は危うくなるのが現状だ。ネット掲載に危険があり新聞社が警戒するのは当然だ。読者が背景を読みこむべきだろう。読者が新聞社と記者の健闘を受け止め、自らを受け手であると共に送り手として自覚するべき刻だ。


Ⅱ:【池内了氏『代替わり狂騒曲 天皇の政治利用に注意』】転載

 私は従来、このコラムでは社会的な事象で評論することを避け、専門の科学・技術に関わる地味だが重要な問題を論じるようにしてきた。しかし新元号の発表以来、この一か月余り続いてきた天皇の代替わり行事に絡む一言感想を記しておかねばならないと思って筆を執った次第である。

 「天皇制の歴史は、天皇の利用者の歴史」とは林達夫が『反語的精神』の中で述べた言葉だが、天皇が「現人神」から「日本国の象徴であり日本国民統合の総意に基く」(以上、日本国憲法第一条)となっても、やはり本質的には政府が天皇の最大の利用者であることを示したのが、今回の代替わり騒動であったと言えるのではないか。

 新元号の決定過程に安倍首相が介入し、国書である『万葉集』から選ばれたと解説まで加えてみせたパフォーマンスは、内閣総理大臣たる自分が人々の時間までも支配していることを国民に知らしめる意図を感じさせる。
前もって新天皇になる予定の皇太子に対して「令和」を採用すると宣言したのも、時間の支配者は天皇ではなく、この自分であることを認識させるためであったのだろう。そうして、国民に対し「平成の終わり、令和の始まり」を広く演出して、あたかも時代が大きく変わるかのように錯覚させた。

 実際、新聞やラジオやSNS(会員制交流サイト)など、すべての情報媒体は「平成の終わり」の大合唱をし、退位の「おことば」に感激して天皇の在位時代を「言祝(ことほ」ぐ)ことになった。災害地や激戦地などへの訪問を高く持ち上げ、退位する天皇夫妻の人柄の良さばかりに話題が集中し、天皇制についての議論は棚上げとなってしまった。天皇を利用して天皇制の議論をタブーにしたのである。

 続く「令和の始まり」を合言葉のようにして、新元号に新天皇、五年先には新札にすることまで早々と発表し、まさに「令和元年という新たな時代」に相応しく、「新憲法」になだれ込もうという魂胆が垣間見える。具体的には、新天皇即位後の朝見の儀における「おことば」に、安倍政権による天皇利用の奥の手が仕込まれている。前天皇の即位の際には「皆さんとともに日本国憲法を守り」とあったのが、今回は「国民に寄り添いながら、憲法にのっとり」にしていることだ。この「おことば」は即位の儀の前に閣議決定を経ることになっており、安倍政権がそこに改憲の意を込めているとも読み取れる。天皇は「憲法を守る」という約束ではなく、いかなる憲法となろうと、ただ「憲法にのっとり」統合の象徴となると表明したにすぎないのだから。

 そもそも、沖縄・辺野古の問題をはじめとして安倍首相は「寄り添う」という言葉を連発しながらまったく「寄り添う」姿勢を示さず、今やこの言葉は無意味な修飾語となっているのだが、「おことば」にも使われているのは首相好みの口癖なのだろう。

 安倍首相は、「憲法九条に自衛隊を認知する条項を付け加えるだけで何ら変化はない」と言うが、実力部隊の存在を憲法に明記するのだから、九条の第一項の戦争放棄と第二項の戦力不保持の条項が空文化してしまうことは明らかである。新たに売りだした「令和まんじゅう」は餡(あん)に新味を付け加えただけと宣伝するが、実はじわじわと全身に毒をひそかに仕込んでいるようなものである。


 私たちは、天皇の政治利用に対し厳しく監視しなければならないのではないか。

(いけうち・さとる=総合研究大学院大名誉教授)


Ⅲ:【私見】
新たな戦前に抗する羅針盤
              櫻井 智志


 昏い時間の流れの中で
 あなたは沈黙している
 いまいうべき時に

 歴史の偶然は
 思いも知れない突然と偶然からとびだすから
 視野は広く目を見開き
 危険な兆候に
 ひとつひとつ意思表示をしよう
 持続できる範囲で
 無理せずに

 危機の予兆に
 豊かな抵抗とあたうる異議申し立て
 毅然と言おう

 黙ったまま飼い習わされていくなら
 いつか
がんじがらめに縛られ
 気がついたら
 何も言えなくなっている

 戦没学生の手記
きけ
 わだつみのこえ

 『人はのぞみを喪っても生きつづけてゆくのだ。

  手は泥にまみれ
  頭脳はただ忘却の日をつづけてゆくとも
  身内を流れるほのかな血のむくみをたのみ
  冬の草のように生きているのだ。

  同じ地点に異なる星を仰ぐ者の
  寂寥とそして精神の自由のみ
  俺が人間であったことを思い出させてくれるのだ。』

  私たちは
  現在
  ほんとうに精神の自由を実感しながら
  自由精神を保持しているだろうか

  戦時下に田辺利宏が堅持したような
  個性的な人間性と人格を
  ぎりぎりの非常線に居ても
  破壊されずに保守しているだろうか

  独裁者は
耳障りのよい言葉と
心理的マジックを携帯している
だがやがて自滅自壊して
権力没落の日が訪れる

その日が来るときまで
生きて生き続けること
自由精神の継承者として
次の世代へ


    -了―

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