2019年3月21日木曜日

【時事/日本史】キャラ絵小話~戦国期の大地震について!

時事/日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/03/blog-post_9.html
ウシジマくん完結と、ダークな歴史人物について!









☝・・・そういえば、東日本大震災が起こって はや8年が経ちましたね。 今回は、これにちなんだ話を・・・。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)




☝・・・わが国・日本の歴史を紐解くと、地震のことは古くは記紀に「なえ/なゐ(い)として記されており、いにしえの時代より避けられ得ぬ自然災害として恐れられてきた。


大地震は歴史的にみて繰り返し襲ってくるものであり、なかでも「巨大地震」クラスの震災は、おおよそ1世紀に1回程度の間隔で発生してきたことが地震史学の研究によって分かってきている。







☆『千万の覇者』より、織田信長


☝・・・なお、信長の生きた期間においては、特筆されるような大地震は無かったとされている。 同時代には筆まめな武将・公家・僧侶・文化人たちが日本各地で活動しており、彼らの残した史料に大地震の記録が見当たらない以上、無かったと考えるのが妥当だ、といったことがその理由だ。


しかし、信長が亡くなったしばらく後、日本史上屈指の地震が起こることとなる。







【天正地震】
それが天正13年(1585)の11月に起こった大地震「天正地震」だ。 天正といえば信長の創り出した時代であるが、彼はすでに3年前、「本能寺の変」によって他界している。


推定されている震源地は日本中部。 飛騨か美濃の国あたりで、マグニチュードは7後半~8程度ではないかと言われている(諸説あり)。 これは内陸地震としては相当大きな規模であり、平成30年(2018)9月に起きた北海道地震のマグニチュードが6.7だったことを考えると、ひときわ大きな地震であったということが分かると思う。







☆『戦国IXA』より、内ケ島氏理


☝・・・天正地震についてのエピソードで有名なのが、「帰雲(かえりくも)城と内ケ島氏の滅亡」だ。


稀に見る大地震は山々を激しく揺り動かし、至る所で土砂崩れが発生。 とりわけ帰雲山では大規模な山体崩壊となって、飛騨の国・白川郷を主な領地としていた内ケ島一族は城もろとも土砂に巻き込まれて滅亡してしまったのだ。


あるいは別説では、地震発生 → 山崩れの土砂が谷を埋める → 自然ダム湖ができる → のちに決壊して鉄砲水が発生 → その洪水に巻き込まれて滅亡 ・・・という説もあり、そのあたりは判然としていない。









☝・・・『グーグルマップ』より、岐阜県帰雲山の崩落現場。 ご覧いただいたように、ネット上の航空写真においても、天正地震によってできた山の傷跡が今日でもハッキリと見て取れる。


なお、滅亡した帰雲城には鉱山開発によって得られた金銀が蓄えられていて、それらも災害と同時に失われたのでは?と推測されることから、いわゆる埋蔵金伝説となっている。


埋蔵金伝説にはロマンがあるものの、いかんせん、肝心の帰雲城の場所がまるでわかっていないということもあり、本格的な調査はされず、手つかずのままに放置されているようだ。







☆『戦国IXA』より、山内一豊と千代


☝・・・天正地震について話をすすめよう。 帰雲城のほかに、この地震で知られているエピソードがある。 それが山内一豊・千代夫婦の被災だ。


そのころ、山内一豊は羽柴秀吉の部下として徐々に出世をしだした時期で、当時は近江の国・長浜の城主となっていた。 そこに大地震が起こり城は倒壊、一人娘の「よね」が巻き込まれて亡くなってしまったのだ。 記録によれば、揺れにより城の屋根が大幅にズレて建物が崩壊してしまったという、それくらいの規模の地震だったそうだ。







☆『戦魂~SENTAMA~』より、千代


☝・・・山内夫妻にとってよねは結婚8年目にしてようやく授かった愛娘で、それゆえに亡った悲しみもひとしおだったことだろう。 以降、彼らの間に子供は授からず、千代は捨て子の「お拾い」を、よねの生まれ変わりとして大切に育てることになる・・・。


このように天正地震とは、飛騨の国で山の大規模崩壊があったかと思えば、近江の国・長浜でも城が倒壊するほどの揺れ(→震度7相当)が観測され、また、北陸地方・日本海沿岸や伊勢湾・太平洋沿岸でも津波があったという史料があるなど、通常の内陸地震では考えられない規模の地震だったようだ。







☆『戦国姫MURAMASA』シリーズより、姫化したルイス・フロイス


☝・・・「天正地震」の激甚な被害があまりにも広範囲にわたっているあたりに、一部の学者はその史料の信ぴょう性を疑っているようだ。 とはいえ当時、日本各地で情報収集を行っていたイエズス会の宣教師たちがその被害を見聞きし、それを文筆の鬼才、ルイス・フロイスがまとめて正式な報告書にしている以上、そういった事実はあったものとして受け止めるしかないだろう。


いずれにせよ、天正地震とは、私たちが知っているパターンのものとは大きく異なる巨大地震であったことは確実だ。






(・ω・)(・ω・)(・ω・)


【慶長の大地震】
天正地震につづいてご紹介するのは「慶長伏見地震」・・・通称「慶長の大地震」だ。 秀吉の伏見城が倒壊したことで知られている大地震で、いわゆる戦国時代(正確には安土桃山時代)に起きた地震としては、こちらのほうがダントツに知名度が高いだろう。







☆『千万の覇者』より、豊臣秀吉


☝・・・地震が起きたのは文禄5年(1596)閏7月7日の深夜。 震源地は摂津の国、現在の宝塚市のあたりで、マグニチュードは7.5前後と推定されている。


あれ・・・なんとこの地震、「慶長」の名を冠するわりには、実は「文禄」年間に起こっているじゃないですかー! @@; なんちゅう誤解を招きやすい名称だ・・・。 しかも、震源地は伏見直下ではなかったのですね。


なお、平成30年(2018)6月に起こった「大阪北部地震」はテレビの報道などで「慶長大地震の再来」とも言われていましたが、地震考古学からすればそれは別の地震であると考えるようだ。 むしろ、慶長の大地震の再来といえば、平成7年(1995)1月に起こった「阪神淡路大震災」の方が当たっているのだとか。







☆『しろくろジョーカー』より、豊臣秀吉


☝・・・慶長の大地震は、新築したばかりで豪奢を極めた伏見城を無残にも倒壊させた。 秀吉や寧々といったVIPは一難を逃れたものの、城に詰めていた侍妾700人が圧死したと、ある文献にはそう書いてある。


その時の史料の一つを引用してみよう。


❝慶長元年閏7月7日、大坂に於いては午後8時より始まり、閏7月12日の夜半、一層甚だしく、事急にして人々家を出る暇なく、瓦の下に埋まれる者多し。 太閤殿下の宮殿は大廈高楼尽く壊れ、彼の千畳屋敷、並びに城櫓2か所倒れたり。 ・・・地震は半時間ばかりにして止み、死せる者600余人、・・・瓦礫の下に敷かる。 此の地震の起きるとき、大地鳴動し、恰も大海の翻り、巨濤の岸に触れて崩るるが如くなり。 云々。❞


・・・一部通説とは矛盾する内容を含んでいるものの、なかなかに実況的でリアルな文章描写であるね。







なお、大地震で怖いのが沿岸では津波、内陸の都市部では火災だ。 この時代、各家庭で使われるエネルギーは炭や薪といった時代であり、火種が町・城内の至る所にあった。


しかし、伏見城とその城下では、幸い大火事には至らずに済んだようだ。 地震の発生したのが閏7月と、暖を取る必要のない季節だったおかげもあるだろう。 それなので秀吉は城内の庭に屏風・陣幕を張り、屋根からの落下物の心配のない場所に仮の宿をしつらえて、余震の続く不安な一夜を過ごしたという。 このエピソードは熊本地震でテント生活をした人々の話を彷彿とさせて、なかなか興味深いですね。 人の心理・行動は時代が変わろうとも同じなのだな、と・・・。







☆『のぶニャがの野望』より、キャットう清正


☝・・・なお、この非常事態に活躍したのが加藤清正だ。 彼は朝鮮の役のいざこざで謹慎処分となっており、本来は外出禁止のところを、 「すわ、お家の大事!」 と迅速にガレキ撤去隊を組織して救出に向かったのだ。 その際、後から来た石田三成とその配下を伏見城に入れさせず、妨害することを怠っていない。w こういった意地の張り合い・足の引っ張り合いも、傍から見る分には面白いですね。


また、この震災で伏見城に一番乗りを果たしたのは細川忠興であったようですが、2番目に登城した清正の方が名を挙げている。 彼のこの時の活躍ぶりは「地震加藤」という通り名で称賛され、非常時にこそ活躍することで秀吉への忠誠心を示し、その信頼を勝ち得たのだ。







☆ゲーム『ワイルドカード』より


☝・・・ところで、さきほどの「慶長大地震」というのは、いくつかの前兆とも思える奇妙な現象が観測されている。 なんでも、大地震の2週間前から燃えるような赤い彗星が現れ、大坂の町に灰が降った、などといったことがあったというのだ。


もっとも、降灰は浅間山の噴火によるものと考えられ、もう一方の燃える彗星と大地震との因果関係は、科学的な見地からは否定される。







☆官公庁のサイトより、中央構造線の図


☝・・・それよりも重要なのは、この「慶長伏見地震」の3日前には伊予の国で大地震が発生していて、その2日後(慶長伏見地震の前日)には豊後の国で大地震が発生していて、その際には別府湾に大津波が押し寄せ、いくつかの島が消滅したと文献にはある。


つまり、伊予・豊後・伏見のこれら3つの地震は一つのセットであり、西日本の中央構造線がジワリと活動した結果の出来事だと言えるだろう。







☆サイト『痛いニュース』2011年3月の記事より
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1607172.html


☝・・・記憶に新しい東日本大震災でも、本震である宮城沖のマグニチュード9.0が起こった約30分後に茨城沖でマグニチュード7.6の地震が、そして数日以内に長野県、そして富士山直下で震度6の地震が起きるなど、東日本のあちこちに局部大地震が起きている。


気象庁の公式見解ではこれらの地震(→ 長野、富士山直下地震)は別個のものであり、東日本大震災との関連性は無いと言っているようだが、そんなバカな話は無いだろう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


おっと失礼、当時の非常時の雰囲気がよみがえり、ついトゲトゲしい物言いになってしまったようだね。







過去の延長に現在があり、そして未来へとつづいていく。 過去の大地震を知ることとはすなわち、未来に起こる地震への備えとなるハズだ。 まったく同じ災害は起こらないけれども。


わたしたちは、運悪くも「千年に一度の大地震」に見舞われた歴史の生き証人だ。 だからこそ折に触れ、みんなで少しでもそれについて語っていきたいものですね。


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




☆お知らせ☆
ブログランキングに参加しています。 クリックをして応援よろしくおねがいします!
('◇')ゞ



日本史ランキング


記載されている会社名・製品名・システム名などは、
各社の商標、または登録商標です。

0 件のコメント:

コメントを投稿