2019年6月12日水曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(8)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
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キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編(7)




☝・・・キャラ絵小話!蘆名家&れんみつ姫編、今回は8回目ということで、元亀年間からの蘆名家について追っていこう。







☆『千万の覇者』より、蘆名止々斎


☝・・・元号が永禄から元亀へと改正された頃のこと。 会津の領主・蘆名盛氏は止々斎(ししさい)と号して隠居の身の上であったものの、仙道(いまの福島県中通り地域)の統治に追われていた。


それというのは、仙道には中小の大名がひしめき、彼らの間でこまごまとしたいざこざが絶えなかったためだ。 盛氏はその地域のドン、盟主として軍事・政治の介入を行っていた。


そんなところ、南方で戦雲が湧き立ち、やがてそれが南奥に向かってやってくることになる。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国大戦』シリーズより、佐竹義重


☝・・・その南方で湧き立った戦雲とは、常陸の国・太田の佐竹義重と彼が率いる北関東衆である。


このころの佐竹義重は、岩城氏の当主・親隆が「狂乱の病」であるとして彼を隔離・幽閉し、その妻・桂樹院を当主の代理人に立てていた。 親隆妻の桂樹院とは義重の妹のことである。 つまり、義重は自分の妹を通じて岩城家中の軍事・政治を思い通りに動かし、岩城家を自らの洞(うつろ)と仕立てていたのだ。


これにより、面積として佐竹本領に匹敵する広大な岩城領が、政略によって無駄な血を流すことなく義重の掌中に転がり込んできたのである。 そのうえ、岩城領は南奥経略における重要な意味を持っていた。







☆官公庁のサイトより、南奥の伝統的な勢力図








☆『グーグルアース』より


☝・・・それが、岩城領から仙道へと続く新たなる回廊/街道である。 かつて佐竹氏にとって、仙道に続く街道とは本拠地・太田から北に延びる谷地のみが唯一のものであったが、ここに岩城領を併呑したことによって、新たなルートがもう一つ選択肢として浮上したのだ。


佐竹氏はこの岩城ー仙道間の回廊周辺の国人・地侍といった武家の調略を推し進めた。 佐竹の味方として寝返るように、といった誘いだ。 その結果、佐竹氏に靡き、恭順の意を示す武家が次々と現れ出すことになる。


本来、その地は蘆名盛氏がドンとして睨みをきかせる勢力圏内である。 しかし、いまやそれが佐竹氏によってパワーバランスが崩され、ドミノが倒れるがごとく次々と連鎖をしはじめたのだった。


これ以上、佐竹氏の好き放題にさせてはいけない・・・。 佐竹氏の動向に気づいた蘆名盛氏は軍備を整えさせ、こうして蘆名・白川・田村の三氏を中核とした連合軍が編成されて、対佐竹氏との戦い・・・元亀・天正の白河戦役が勃発したのである。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国ixa』より、彦姫


彦姫「盛興さま、ご武運のあらんことを・・・どうか勝って無事にお帰りくださいませ 」







☆『グーグルアース』より



☝・・・こうして元亀2年(1571)の夏、蘆名・佐竹の両軍は南郷(白川領南部)で激突することになる。 このとき、蘆名の本陣は長沼に、対する佐竹の本陣は寺山に構えられて両軍はまず睨み合った。


主戦場となったのが白川領の赤館(いまの棚倉町)で、蘆名方にとっては絶対に抜かれてはならない南奥の最終防衛ラインであった。 石川氏といった岩城領に近い中小の大名たちは佐竹氏の調略に揺れ動いており、赤館を抜かれたら最後、彼らは軒並み佐竹方へと離反してしまう恐れがあったのだ。


そういった背景があり、地域の国衆の裏切りや岩城方面からの佐竹軍の急襲を警戒して、蘆名盛氏は係争地・赤館から一歩・・・いや、5・6歩退がった長沼城に本陣を構えたものだと思われる。 蘆名方は、岩城方面からの佐竹軍も警戒する必要が生じていたのだ。


もう何度目であろう? 佐竹氏の先代・義昭からすでに10年越しにこの地で戦いが続けられている。 佐竹氏のこの地に対する執着は、並々ならぬものがあった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


【武家と鉱山について】


☆『信長の野望』シリーズより


☝・・・佐竹氏が南奥地域に執着する理由の一つが、(きん)だといわれている。 八溝山系、阿武隈山系は豊富に金を産することで知られていた。


そんな佐竹氏は鉱山技術を持っていたことが知られている。 佐竹の領内には「金砂(かなさ)」と呼ばれる土地があり、古くから金の砂鉱(砂金)があったことが伺え、鉱山技術の礎となったハズだ。 時代は下り、のちの豊臣政権時代の佐竹領国は、日本全国で3番目(あるいは4番目とも)の金の産出を誇っている。 さらに、佐竹氏が秋田に移封された後も、この鉱山技術が藩政で大いに役に立ったという。


そもそも佐竹氏は源氏であり、その源氏が平安時代の頃からすでに鉱山技術に詳しいといったいきさつがあった(→源満仲の多田鉱山開発)。 そうでもないと、シロウトが思いつきで坑道を掘って鉱石を採掘し、選鉱・精錬するなど複数の工程を経たうえでようやく金銀を産出して、さらに経営を成り立たせるといったことはできないだろう。


そういえば、甲斐の武田氏も源氏であり、鉱山の技術に長じているが、これも先祖からの鉱山技術の賜物だと思われる。 また安芸の武田家も、その居城は佐東銀山(さとうかなやま)城と、これまた鉱山と関係が深かったことを示している。


源氏には、家の子・郎党といった家中に、そういった鉱山技術を伝承する人たちがいたのだろうか。 しかし、「日本の鉱山と武家の歴史」といったテーマはかなりマイナーな分野であり、その研究は途上の段階にある。 それなので、この話はこのあたりで撤退しよう。







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元亀2年(1571)に始まった蘆名ー佐竹の白河戦役は、数年にわたって繰り広げられることになる。 その戦いは、ある時は蘆名方が優勢であり、またある時は佐竹方が優勢であった。 また、時には仲裁により両軍が和睦するといった場面もあったが、すぐに反故となって戦いが継続されるなど、つまりは一進一退の互角の攻防がつづいていた。







☆『戦国ixa』より、蘆名盛氏


☝・・・その戦いの局面の一つで、蘆名盛氏は「戦ほど面白いものはない」といったことを述懐したことがあったようだ。 それは盛氏が味方に宛てた手紙に自らの気持ちを素直に現したもので、それは天正2年(1574)の時だとされている。


しかし、この「戦ほど面白いものはない」というのは、わたしが資料を見た限りでは意訳がなされている。 「超訳」と言ってもいい。 もちろん、大まかな意味はその通りだと思うけれども、けっこうニュアンスが異なるように感じられるのだ。







【蘆名盛氏文書の「揺(うごき)」考】


蘆名家に関心のあるマニアな人のために、先ほどの盛氏書状について詳しく見てみよう。 ある書籍に、例の盛氏書状の原文と読み下しの文章が載っていたので、必要な部分を引用してみよう。


❝「五百余人打ち候、南郷在中一戦をとげ、かくの如きこと、老子本望申すことなく候」、「両日揺(うごき。動=はたらき、軍事行動の意か)の刷い(あつかい)ともお目にかけたきまでに候」、「揺ほど面白き物はこれなく候」、「座敷の前の軍(いくさ)申し勝ち申し候、一期の本望までに候」、「岩崎町前、早々入馬、念望に候」。❞


この読み下しの文が載っているのが、元福島大学名誉教授・東北学院大学教授の小林清治先生(故人)の書籍だ。 この中にある「揺ほど面白き物はこれなく候」という部分が、ゲームをはじめ方々で「戦ほど面白いものはない」と意訳されて流布されているといったワケなのだ。 そしてそもそも、小林先生が「揺」を「うごき=はたらき」、軍事行動と解釈していることに留意しよう。


しかし、先ほどの文章を通して読むと、「揺(うごき)のほかに「軍(いくさ)という語が登場していて、そしてそれらは区別されて使われているのだ。 と、なると、その二つの語は別の意味を持つということになる。


では、この盛氏の使う「揺、うごき、はたらき」とは、いったいどのような意味なのだろうか? そもそも、「揺」の漢字には「ゆらす、ゆさぶる」という意味がある。 それなので、ここは素直に、揺らす、揺動、陽動・・・「あえて敵にこちらの行動(陽)を見せることで敵のミスリードを誘い、本来の目的(陰)を遂げる」・・・こういったことを指しているのではないだろうか。







☆『戦国ixa』より、蘆名盛氏


盛氏 「わし・・・バトルマニアのキャラ付けされてしまっている?」


☝・・・仮にも、人物の解説で「戦ほど面白いものはない」という一言が付け加えられて紹介がされたなら、その人物はさも合戦が好きな人物のように見なされてしまうことだろう。 ともすれば、脳筋・・・「頭脳も筋肉」といった好戦的で猪武者のイメージを抱く人も出かねない。


それが、「揺さぶり、陽動ほど面白いものはない」と解釈すれば、その人物は計略に長けた、智謀の武将にがぜん見えてくるから面白い。


いずれにしても、このときの盛氏は十分な経験を積んだ熟練の武将として、若造の挑戦者・佐竹義重の裏をかいて勝利をしたことに、得意満面で書状をしたためていたことが伺えてなかなかに興味深い。 盛氏という人は智謀タイプの武将であり、そしてまた感情豊かな人だったようですね。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


このように、蘆名と佐竹の戦い・・・白河戦役は長きにわたって一進一退の状況が続いていたが、意外なところから戦局が動き、この戦役は一つの節目を迎えることになる。 しかし、それはいったん回を区切って、次回のお話しとすることにしよう。


次回をおたのしみにー。
(・ω・)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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