2019年6月7日金曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(7)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/06/ixa.html
キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編(6)




☝・・・蘆名家とれんみつ姫について! 今回は7回目ということで、全体的に少し外伝風の、脱線話を主にしていこうかな。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、蘆名盛氏


☝・・・永禄年間の終わりの頃。 会津の領主・蘆名盛氏は南奥(いまの福島県地域)の盟主として、その地域の統治に汲々としていた。 盛氏はすでに隠居をしており、本来なら表舞台に立つべきではなかったが、何やかんやとお鉢が回ってきて彼は仕事をさせられていたという訳だ。


盛氏 「隠居してからの方が忙しくなるとは・・・なんとも皮肉なものだな」


蘆名洞中(とうちゅう)では軍事行動が絶えなかったが、どれも小規模なものであり、そこに深刻さといったものは無かった。 このころ、奥羽の戦乱は小康状態にあったのである。


そんななか、また東国で戦局の変化が現れた。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『信長の野望』シリーズより、武田信玄と北条氏康


☝・・・永禄11年(1568)12月のこと。 甲斐の武田軍が駿河の今川領に侵入、大規模な軍事作戦を展開した。 武田と今川、そして北条は相互同盟を結んでいる。 裏切りともいえるこの挙に北条氏康は激怒、今川を援けて武田とは絶縁するという決断を下した。 ・・・いわゆる「甲駿相三国同盟の解消」である。


このとき、氏康は武田と戦うにあたって、なんと長年の敵であった越後の上杉謙信に和睦・同盟を申し込んだのだ。







☆『信長の野望』シリーズより、上杉謙信


☝・・・この重大な申し出に、上杉謙信は逡巡する。 そして関東に配置していた腹心の武将たちに、このことを書状で相談した。 かくかくしかじか・・・。







☆『戦国ixa』より、太田資正と佐竹義重


太田三楽斎「えぇ、北条と和睦? 笑えない冗談はおやめください!」
佐竹義重 「ナイナイ・・・ 奴らは不倶戴天の敵っすよ。」
里見義尭 「謙信公の関東管領職と、北条方の公方との整合性はいかがするのです!?」


謙信 「・・・そうか、皆の気持ちはよく解った。 では、北条とは和睦する!」


太田・佐竹・里見 「ちょっと! ちょっとちょっとー!!(ざ・たっち風)」


☝・・・こうして、上杉謙信は周囲の反対を斟酌せず、北条の申し出に「承知」と伝えて、翌永禄12年(1569)の6月に「越相同盟」が締結されたのである。


ツッコミどころ満載の謙信の決定に、関東の反北条の武家衆は言葉を失った。 ここのところ、彼らは上杉の援軍があっても北条に押され気味であったというのに、まさかここで上杉が北条の同盟者になるとは、いやはや。 人生にあると言われるいくつかの坂・・・「まさか」としか言いようがない出来事であった。 とりわけ、義重の失望は大きかった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国やらいでか』より、姫化した上杉謙信


☝・・・「越相同盟」の締結に、とりわけ佐竹義重の失望は大きかった。


義重が初陣のときのことである。 当時の上杉謙信はまだ上杉家を継いでおらず、長尾景虎という名前の時代で、はじめて関東への軍事介入を開始していたころの話だ。 そのころの景虎は、義重の将器を見抜いて何かと目にかけ、名刀の「備前三郎宗国」を初陣祝いとして与えるほどであった。 その宗国の刀は、義重秘蔵の愛刀として今でも毎朝の手入れを欠かさない。 義重にとって謙信とは、少年時代の憧れそのものであった。


少年義重にとって、「軍神の化身」と讃えられた景虎の雄姿はあまりにも眩しく、その印象はすでに20代となった今でも鮮明に残りつづけている。 それゆえに、今回の「越相同盟」は裏切りだと彼は人一倍感じたという訳である。







☆『戦国プロヴィデンス』より、姫化した佐竹義重


☝・・・しかし、このときの軍事バランスは奇妙な均衡を保つもので、北条の矛先が武田に向かい、その精鋭が対武田の前線に送られている間は、佐竹は比較的安全だということが言えた。


佐竹義重は上杉謙信に裏切られたという感傷を受けつつも、武将・軍略家の本能としてこの事実に注目する。


義重 「大ピンチと思いきや、案外この状況はチャンスじゃね? ・・・北条を刺激せずに、周囲の中小の大名をプチプチ潰してしていくとするか!」


こうして、佐竹による「北条(おに)の居ぬ間の洗濯的、軍事作戦」が始まることとなる。 しかも、大車輪のように多方面にわたって、である。








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☆『戦国ixa』より、小田氏治


☝・・・佐竹義重がまず標的としたのが、常陸の国・南西部を支配していた小田家であった。 小田家とはここ十数年来、小田城をめぐって城を取ったり取り返されたりといったシーソーゲームが展開されている。







☆『戦国ixa』より、太田資正、梶原政景


☝・・・このシリーズは蘆名家が主役なので、この戦いの詳細は端折ろう。 ただ、このときの佐竹軍は太田資正・梶原政景の父子が華麗な活躍をしたことで知られている。


その時の佐竹側の作戦の骨子は、まず小田氏治を挑発し、その軍をおびき寄せて釘づけにしている間に、別動隊が迂回をして本城を落とすという、極めて単純な作戦である。 しかし、単純と思えるその作戦はクリティカルヒットをし、佐竹氏はまんまと小田城を手に入れることができたのだ。


このとき、氏治が率いた兵力は3000、その一方で太田父子の兵力はわずか600、小田城を落とした真壁氏はおよそ1000の兵だったと伝わっている。 義重の出番がほとんどないという、佐竹旗下の優秀な武将たちの活躍であった。







☆『戦国武将姫Muramasa』より、姫化した小田氏治


☝・・・筑波山中の隘路で多勢による利を失った小田氏治は、太田資正によって痛打を受け、本城の陥落という悲報も加わって惨めな敗走とあい成った。 氏治は「不死鳥」の異名を持つしぶとい武将ではあるが、以降、小田城が小田氏のもとに還ることは無かった。


このように、「手這坂(てはいざか)の合戦」と呼ばれるこの戦いの結果として、佐竹氏は小田氏の本城・小田城をまんまと支配下に収め、筑波山を超えて勢力を拡大したのである。







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南方の小田氏との戦いにケリがつき、佐竹義重が次に目標と定めたのが東北の方角、南奥の岩城氏である。


なお、ここのお話では、佐竹氏は順々に敵を攻略しているように語っていますが、実際のところは多方面・同時期にわたって作戦は開始されている。 永禄年間は東国における戦国時代のたけなわで、いっぱしの大名であるのなら、戦場の多極化は当たり前のことであった。







☆『信長の野望』シリーズより、岩城親隆


☝・・・佐竹義重に狙われた岩城氏の当主は、親隆である。 彼もまた、生い立ちや周囲の大名との血縁関係といった事柄はかなり複雑だ。


まず、彼は伊達晴宗の長男で、生まれてすぐに岩城家に引き取られて養嗣子として育てられた。 岩城氏には男子がおらず、親隆の母が久保姫・・・岩城氏出身の娘ということで、その血が濃かったためだ。


そして、親隆が岩城の家を継いでからは佐竹義重の妹・桂樹院と結婚し、岩城氏は伊達、佐竹氏とは姻戚の関係にあった。 そんな親戚とも言える岩城氏を佐竹義重は狙っていったというワケである。







☆『戦国大戦』シリーズより、岡本禅哲


☝・・・とはいえ、佐竹氏による岩城氏併呑の策謀は、佐竹義重の先代・義昭のころからすでに始まっていた。 岡本禅哲船尾昭直といった、岩城家中の家老級といった武将たちが、すでに以前から調略を受けて佐竹家への家臣化が進んでいたのだ。


もちろん、こんなナメたことをされて戦国大名が黙っているワケがない。 佐竹、岩城の両家はとうぜん険悪な仲となり、いくつかの戦いがあったと言われているが、残念ながらその詳細は分からない。


そして決定的となったのが、永禄末年(1569)の現当主・岩城親隆の病弱と、先代・重隆の死去だ。 この事態を受けて親隆の妻・桂樹院(義重の妹)が岩城当主の権力を継承し、実家・佐竹氏の意向を受けて領地を治めるという事とあいなった。 このように、岩城家は佐竹氏の(うつろ)、衛星勢力となったのである。







【佐竹氏を取り巻く、不審な事象について】




☝・・・なお、興味深いのが岩城家の当主・親隆の病についてだ。 その症状がどのようなものだったのかというと、「狂乱の病」と記録に記され、花押を押す(サインを書く)こともできず、当主の務めが果たせなかったとされている。


彼は精神系の病であったのか、はたまた別の病であったのか。 真相は分からないものの、何やらおどろおどろしい印象を受けてしまう。







☆『戦国ixa』より、宇都宮広綱


☝・・・佐竹氏の衛星勢力として、宇都宮家もその一つとして知られている。 当主・広綱は幼少の頃に、佐竹氏の軍事援助を全面に受けて名字の地・宇都宮に復帰したといういきさつがあって、それ以来、佐竹の旗下となっていた。


そんな広綱は佐竹義重とほぼ同年代で、義重の妹・南呂院(通称せうしやう:少将)を妻としていた。 その広綱も、やがて病弱となって臥せってしまい、その妻が家臣団と合議で政務に当たっていたと言われている。 たとえば、上杉謙信は宇都宮家に書状を書くにあたって、その宛先を南呂院としているほどだ。


なお広綱は、数年前の長尾景虎の小田原攻めでは、その戦線に参加して後詰の一部隊を率いている。 そんな元気そうな彼が10年足らずのうちに病床についてしまうとは、運命とはなんとも残酷なものだ。


このように岩城家と宇都宮家、同時代に佐竹氏から嫁を貰ったという両家が、偶然にも同時期、その当主が病弱で実務がこなせずにその妻が実権を握るという事態が起きている。


・・・。 これってすごい偶然ですよねえ。 ・・・いやいや、これは何も佐竹氏が一服盛ったとか、そのようなことは証拠も伝承もないですし、毒によって病弱にされたといった疑惑は、わたし個人のゲスの勘繰りといったところだろう。







しかし、念押しをかねて、もう一例ご紹介しておこう。


☆『千万の覇者』より、正洞院


☝・・・正洞院(しょうとういん)は下野の国・那須氏の娘で、佐竹義重の嫡男・義宣の前室(最初の奥さん)となった女性だ。


佐竹氏が岩城氏を併呑した2年後の元亀2年(1571)ごろ、佐竹氏と那須氏が和睦をした際、彼らの婚約が内定したといわれている。 ただその当時、義宣も正洞院もまだ幼かったことから、10年以上の年月を経たのちに、改めてその婚儀は実現することになる。


そんな正洞院は、天正19年(1591)4月、24歳のときに自害して果てたとされている。 彼女の死について、佐竹氏の家譜・家伝といった資料は言葉少なであり、中には完全に彼女を居なかったものとして扱っているものまである。


なお、正洞院の亡くなった同年同月には「南方三十三館謀殺事件」が起きている。 これは佐竹氏によって仕組まれた陰惨な虐殺事件で、常陸の国・南方に割拠していた中小の領主たちが、太田城に招かれてみな一斉に騙し討ちで殺されたという事件だ。


もちろん、彼女・・・正洞院の死が実際はどのようなものであったのか、そしてこの虐殺事件と関連していたかと記す一次史料は見当たらない。 すべては憶測、傍証といった類のものである。







☆グーグル検索より、佐竹義重像


☝・・・佐竹義重という人は、軍事・政治ともに行動力があり、同時に勇猛さを兼ね備えた優れた武将であっただろう。 しかし、わたしはこの肖像を見ていると、その恐ろしさ・・・例えば、肖像を描かせるあたっても、甲冑・兜を脱がず、あまつさえ面皰も取らないといった、その恐ろしいまでの気負いがこちらにも伝わってきて、一分の隙もなく、そこからは威圧以外のなにものも感じられない。


常在戦場。 虐殺、投毒、謀略上等。 ・・・義重という人は虎狼のように猛々しく、また血塗られた武将であったろうと感じるのは私だけだろうか。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


おおっと、話が重くなってしまったでしょうか。 このブログは、ゲームのキャラ絵を拝借しながらお話が展開されていくという、ライトな方向を目指しています。







今回は長々と佐竹氏のことを語ってしまいましたが、それも蘆名家が激動の時代にあって、いっときの小康状態を保っていたからだ。 「歴史好き」にとって、時代や戦局が動くさまを眺めるのはとても楽しいことなのです。


そして、こんかい焦点を当てた佐竹義重が、やがて岩城氏の方面を経由して、蘆名盛氏の勢力に侵入してくることとなる。 そう、かつて佐竹義昭が侵入してきたルートとは別方面から、蘆名VS佐竹の新たなる戦端が開かれるのだ。


しかし、今回の話が長くなってきているということもあり、そのつづきは次回にしていこう。







☆『戦国ixa』より、彦姫


彦姫 「まあ! 盛興さまったら、またお酒ばかり召し上がって・・・少しはちゃんとした食事を採ってくださいませ! まったく・・・」 [○・`Д´・○]


・・・佐竹氏の次なる標的が蘆名家であることを、当の蘆名家の人たちはまだ気づかずにいる。 嵐の前の静けさの中、それぞれの日常が送られていた。







次回に続きます。 お楽しみにー。
(*´ω`)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。


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