私がかつて訪城した約25城の「模擬天守」を順次お届けしています。

 

以前のブログに記載しましたが、今や市町村のシンボルで市民権を得た状態で聳えている等という理由で、「模擬天守」を採りあげました。そして「模擬天守」について以下の分類があることも簡単に纏めました。

 

お城に「天守」があったものの、現在城域外のかなり違う場所に「天守」が建てられている場合

お城に「天守」があったことが絵図や写真があるが、その絵図や写真とは全く違った形状の「天守」が建てられている場合

お城に「天守」があったものの、「天守」の形が絵図や発掘物等何もなく判らない場合

確かにその場所にお城が有ったと思われるものの、「天守」があったという史実が無い或いは確認されていない場合

お城が有ったという史実が全く無い或いは確認されていない場合(今回のシリーズではこれは割愛します)

 

江戸時代に「藩庁」だった「お城」で、本日お届けするのは、「今治」(愛媛県今治市)の模擬天守です。

 

山里櫓、山里門、模擬天守

 

「今治城」は、関ヶ原の戦いで東軍に付いて活躍した「藤堂高虎」が貰った領地に築城したのが始まりです。

 

しかし、1604年に完成したものの「高虎」はその4年後に伊勢・伊賀国に移封となりましたので、この時に「天守」を解体して移封先の伊賀国へ運ぶ予定でしたが、「徳川家康」から天下普請で「亀山(亀岡)城」(京都府亀岡市)の築城を命じられたので、「高虎」は「今治城」の天守を「亀山城」の天守として据え付けたと言われています。

 

幕末・維新時の「亀山(亀岡)城」天守(これが、今治城から移築された天守だと言われている)

 

その後は、「高虎」の養子「高吉」が治めますが、1635年に「久松松平家」が入城した後は幕末・維新まで続きます。

 

さて「今治城」天守は、前述のように「天守」があって「亀山城」へ移築されたという説と、「天守」は存在しなかったという説があるようです。もし前者であれば五重の層塔型で無破風の「亀山城」天守の古写真が残っているにも関わらず、再建した現在の望楼型破風ありの「天守」では、「亀山城」の古写真とは全く異なる姿ですし、もし「天守」が存在してなかったとしても、現在の天守は「西櫓」台の上に再建しているので、「模擬天守」と言わざるを得ないことになります。

 

本丸跡(吹揚神社)側から

二の丸跡から本丸門と模擬天守を見上げる

吹揚神社内から南東隅を見上げる

二の丸跡から「藤堂高虎」像と模擬天守をのぞむ(北東側)  

模擬天守北面

北西側からの模擬天守と併設する多聞櫓

 

その「模擬天守」は、五重六階、多聞櫓を併設する複合式で、二階の入母屋屋根の上に三重の望楼が乗る望楼型、最上階には高欄・廻縁を巡らせ、唐破風や切妻破風も装備した非常に美しい姿で再建されています。前述の「模擬天守」の分類は②でしょうか。

 

模擬天守北面、手前には山里門と山里櫓

   

 模擬天守と多聞櫓(西側から)

模擬天守最上階

 

次回ブログは、「中津城」(大分県中津市)の模擬天守をお届けします。

 

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