『①外圧で開国を迫られ、安政の大獄や将軍継嗣問題、攘夷運動等が高まる中で、幕府が威信低下し、そして、②最後の将軍”徳川慶喜”が大坂から江戸へ逃避していく その間に起こった出来事に纏わる「お城」を採り上げる』シリーズを進行中で、昨日は、「尊王攘夷」を指向する浪士達の「天誅組」に襲撃されるも敗退させた「高取城(前編)」(奈良県高市郡高取町)をお届けしました。

 

「高取城のありし日の姿」のCG(土佐街道入口付近に掲出)

前編

 

本日は「高取城(後編)」(奈良県高市郡高取町)で、一旦「大手門」跡に戻り、「城代屋敷」前の北側突き当りに構え、城内主郭部分の入口を護る為に枡形を形成する「千早門」跡からスタートします。

 

「千早門」跡

 

ここで、「吉野方面」へ向かう道と、「高取城下方面」及び「明日香方面」に向かう道の分岐点となります。

 

「吉野方面」へは、「千早門」跡から少し坂道を下りますが、右手には「井戸」が二つある「井戸郭」となりここにも水源地を確保しています。井戸の中は「石積み」となっています。そしてこの郭は、「ニノ丸」跡や「本丸」跡北側の真下となるので、急な斜面の石垣が続きます。

 

「井戸郭」内の井戸(石組みが見える)

「井戸郭」の「ニノ丸」跡・「本丸」跡真下側の石垣

 

少し隘路になった場所が「喰違門」跡ですが、僅かな石垣が残るだけで、そこから東側にかけた広大な敷地には「侍屋敷」が拡がっていたようで生活用水としての「井戸」も備わっています。この辺りにも、瓦があちらこちらに散乱しています。

 

「喰違門」跡

広大な侍屋敷跡と井戸跡(右端)

ここでも瓦の破片が散乱

 

引続き「本丸」跡側は高石垣が繋がっていますが、「吉野口門」跡手前には、「竪堀」が「石垣」を伴いながら崖下から「本丸」跡側に向かって掘られ、まるで「登り石垣」のように繋がっている「竪石垣」がありました。

 

「本丸」跡下側の高石垣

「竪石垣」

道を挟んで「竪石垣」が上へ繋がる

「吉野口門」跡

  

 

「千早門」跡に戻り、「高取城下方面」へのコースに向かいます。右手には「三ノ丸侍屋敷」跡の敷地があり「宇陀門」跡に辿り着きます。「宇陀門」跡の石垣も立派で右手に折れる枡形を形成します。ここから麓の城下に至るまでには、たくさんの門を経て向かうことになります。

 

「宇陀門」跡

 

どんどん下り道となっていますが、各所に設けられた「門」は全て立派な石垣が付随して城下からの守りを固めているのが良くわかります。

 

「宇陀門」跡の次に現われるのが「松ノ門」跡です。こちらは、両側にも石垣が延びていて、特に下り道の右手には「侍屋敷」が置かれた郭がありその石垣が際立っています。その北側端には「武具櫓」が設けられていたようです。

 

「松ノ門」跡

「松ノ門」脇の侍屋敷敷地を支える石垣

 

復元「松ノ門」(廃城時に城下の「土佐小学校」に移築、昭和19年の火災で一部焼失。現在、残存部が麓の「児童公園」に復元)

 

坂道をどんどん下りると左側沿いには、段々になった「侍屋敷」跡の石垣があり、それをを見ながら進むと「矢場門」跡に辿り着きます。

 

「矢場門」跡

 

「矢場門」跡から左手に入る道先には二重の「国見櫓」が建っていた郭があります。櫓台からは、名前に相応しく「大和国」を一望できる素晴らしい場所となっていて、現在でも「奈良盆地」「生駒山系」から「信貴山・髙安山」「二上山」が良く見渡せる絶好の遠望地となっています。「天誅組の変」の際には、ここから「天誅組」の動きが良く観察できたのではないかと思いました。

 

「国見櫓」台

「国見櫓」台からの遠望(少し高い所が生駒山、その手前が奈良盆地)

 

「矢場門」跡まで戻り、下っていく途中にも「侍屋敷」跡の石垣が続き「三ノ門」跡から右手に曲がった所に「ニノ門」跡が構えます。

 

侍屋敷の石垣

「三ノ門」跡

 

「ニノ門」跡は、両側にも石垣を積み上げたかなり堅固な造りとなっている上に、その前には、山城としては非常に珍しい広い「水堀」が横たわっています。 

 

「ニノ門」跡

「ニノ門」跡から延びる石垣

移築現存の「ニノ門」(現在は、城下の「子嶋寺」山門に移築、後半に違う方向からの「ニノ門」を掲出)

「ニの門」前の「水堀」

 

また、この地点では、「高取城下方面」への道「明日香方面」への道の分岐点となっていて、そこには、ひょうきんな顔をした「猿石」と呼ばれる石造物が置かれています。「猿石」は、「明日香村」にもあるそうで、ここのモノは築城の際に石材として持ち込まれたけれども、使用されずに放置されたのではないかと言われています。

 

「猿石」

 

「明日香方面」の先には「横垣郭」跡と「岡口門」跡がありますが、「岡口門」跡の写真は撮影できていません。

 

「横垣郭」の石垣か?

 

 「猿石」前から「高取城下方面」へどんどん坂道をくだります。その坂道は「一升坂」と言われていて、築城時に麓から「二ノ門」手前までの長い直線の登城路を人夫が石材を運ぶ際に、あまりにも人夫の負担が大きいので米1升を加増したことから「一升坂」と命名されたといいます。

 

「一升坂」(大手道)

 

更に、その下には七か所のクネリ道「七曲り」もあります。「ニノ門」跡までだけでなくて、「本丸」跡や「ニノ丸」跡のあの膨大な数の石材を当時の人はどのようにして運び、どのようにして積上げたのかは想像を絶します。

 

「七曲り」

 

「七曲り」を過ぎてやっとなだらかな道に達した所にも「別所郭」と呼ばれる広い敷地の郭があり、手前には郭内の入口を担っていた「黒門」跡があります。現在は石垣が少し見ることができます。

 

「別所郭」跡

「黒門」跡(この辺りになるとなだらかな道)

 

この「黒門」の城側が「郭内(かくない)」と呼ばれています。そこから少し出た所で元々は「下屋敷」跡だった場所に「植村家」菩提寺の「宗泉寺」が建っています。こちらには、「植村家」藩主の墓所となっていて各藩主のお墓が並びます。

 

植村家菩提寺「宗泉寺」

「宗泉寺」内の「植村家墓所」

 

「砂防公園」まで下りてくると一気に民家が沢山並びます。その右手にあるお宅には「高取城」の「火薬庫」であった建造物が納屋として使用されていて土壁が目立ちます。砂防公園からの坂道から望遠で写真を撮らせていただきました。

 

「高取城」内にあった「火薬庫」(現在は民家の納屋として再利用)

 

周囲を田畑が拡がる道を下って行くと旧土佐街道の入口付近に、「高取城のありし日の姿」というCGが掲出されています。それを見ると、往時の山全体が城郭建造物で雪のように真っ白に見えたのではないかと思いました。

 

「高取城のありし日の姿」のCG(土佐街道入口付近に掲出)

 

その辺り左側には段々となった農地が拡がっているところが「下屋敷」跡です。またこの近くには「総門」があってその脇に続く「土塀」が現存しています。「天誅組の変」の際には、「天誅組」に「下屋敷」を燃やされています。

 

「下屋敷跡」

 

右手には、白さと海鼠壁の美しさが際立った「植村家長屋門」が建っています。この門は県文化財に指定されていて、元々は藩家老の「中谷家」の長屋門だったそうですが、現在は旧藩主「植村家」の住居となっているそうです。

 

「植村家長屋門」

「植村家長屋門」

 

この辺りから、城下町の風情が残るエリアで、近くには「田塩家長屋門」も並んでいます。こちらの長屋門は、下見板張りで、上部の白壁には監視と防御を兼ねた「出格子窓」と「与力窓」が備え付けられています。

 

「田塩家長屋門」

 

「土佐街道」は約2㎞の街並みが続き、格子戸、虫籠窓、蔵を持った屋敷や町家が並んでいるので、江戸時代の風情を存分に味わうことができます。その中心地となるのが、呉服商だった建物を改装して造られた観光の拠点「夢創館(むそうかん)」で、中には「高取城」の古写真3シーンが掲出されています。

 

観光の拠点「夢創館(むそうかん)」

土佐街道沿いの町家や蔵

土佐街道沿いの町家や蔵

土佐街道沿いの町家や蔵

 

城下で「高取城」に関連する建造物がいくつかあります。前述していますが、再度説明しておきますと、「児童公園」に移築された「松ノ門」の一部、こちらは廃城後に「土佐小学校」に移築されていましたが火事で一部を焼失し、近年残った部分を復元させて当公園入口に使用されたとのことです。

 

旧「松ノ門」の一部を再利用した児童公園の入口門

 

また、街道沿いの「石川医院」の長屋門は、藩主「下屋敷」の「表門」だったそうで、病院の門とは思えないぐらいの立派な門です。

 

藩主「下屋敷表門」だった門を「石川医院の表門に再利用(少し改変されているとか)

藩主「下屋敷表門」だった「石川医院の表門」

 

街道から少し反れますが「子嶋寺」の「表門」には、「ニノ門」が移築されています。こちらも前述していますが、非常に立派な薬医門形式の門で、通常の鏡柱と控柱の位置関係は「||」で建ちますが、当門は控柱が鏡柱より外へ大きく開く「ハ」の字になっています。

 

旧「ニノ門」を「子嶋寺山門」に再利用

旧「ニノ門」を「子嶋寺山門」に再利用(控柱を大きくずらしている)

 

以上で「高取城」の山城部から山麓の「下屋敷」を中心にした城下を巡ってきました。「下屋敷」を「天誅組」に襲撃されたのは判らないでもありませんが、山城部分を攻略するには非常に厳しいものがあって退却せざるを得なかったことが良く解るお城でした。

 

それにしても、築城当時、「一升」余分に工賃が加算されたとしても、あれだけの石垣を築く石を担ぎ上げた人夫(にんぷ)達の功績は凄いものがあります。

 

 

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