イタリアの眺め
湖の向こう、薔薇色に染まる山々の背後に
イタリア、ぼくの青春の賞讃の地が横たわる、
ぼくの夢みる懇ろな故郷(ふるさと)。
紅い樹々は秋を語り
秋のはじめに
人生の秋にぼくは独り坐し、
美しく残酷な世界の眼に見入り、
愛の色彩をえらんで世界を描く、
ぼくはどんなにしばしば騙されようとも
いよいよ深くそれを愛するのだ。
愛と孤独、
愛と満たされえない渇望とは
芸術の母たちである;
すでに人生の秋だというのに
ぼくの手を彼らが引いている、
郷愁にみちた彼らの歌が
水と山々の魔法の耀きを
別れてゆく美しい世界を描きだす。
シベリウス『交響曲 第6番 二短調』から
第1楽章 アレグロ・モルト・モデラート
「 白い街
〔…〕ヨーロッパで唯一、ナチに抵抗して蜂起したこの都市。1944年9月の1か月で劇的にドイツ軍を追い出し、市民による自治を成しとげたこの都市を、見せしめとして、可能な限りの手段を動員してきれいさっぱり破壊せよとヒトラーは命じた。
映像が始まったとき、上空から見たこの都市はまるで雪景色の中のように見えた。白茶けた雪または氷の上にいくらかの煤が落ち、まだらに汚れたところのようだった。飛行機が高度を下げると、都市の姿が迫ってきた。雪に覆われているのでも、氷の上に煤が落ちたのでもなかった。建物はすべて倒壊していた。石造りのがれきの白さと、その上が黒く焼け焦げた跡。それが見渡すかぎり果てしなく続いていた。
〔…〕
だからこの都市には、70年以上経ったものは、存在しない。〔…〕すべて作り物だ。写真と絵と地図に頼って根気強く復元された新品なのだ。柱や壁の下の部分が生き残った場合は、その横や上に新しい柱と壁が継ぎ足されている。下と上、古いところと新しいところを区分する境界が、破壊を証言する線がありありと見えている。
その人について初めて考えたのは、その日のことだった。
この都市と同じ運命を持った人。一度死んで、破壊された人。くすぶるがれきの上で、粘り強く自分を復元してきた人。だからいまだに新品であるその人。生き延びた古い柱や壁が、その上に積まれた新しい柱や壁とふしぎな形で抱き合っている―――そんな形で生きてきた人。 〔…〕」
ハン・ガン(韓江),斎藤真理子・訳『すべての・白いものたちの』,2018,河出書房新社. から。
ハン・ガンは、韓国の作家の中で、いま海外で最も評価が高い女流小説家。⇒:「スウェーデンのブックフェアで韓江氏に大きな関心…韓国文学ブーム到来?」(中央日報)
書店で手にとってめくった時には、強い印象のなかったこの訳書も、家に帰って読みはじめてみると、題名が暗示するような、“白い”表面で被覆され隠された熱い‥‥凄絶と言ったらよいのか‥‥核心に、圧倒される思いでした。小説というより、散文詩と言ってよいほど凝縮された語りに、私たちをとらえて離さない何かがあります。
たとえば、この「白い街」ワルシャワで、新しく借りた古いアパートのドア―――釘で稚拙に引っかいて記された部屋番号の数字から、流れて凝まった赤さび、――その上を、白ペンキで何度も被覆する「私」(p.13~)。
被覆は、傷の“治癒”でもなければ“隠蔽”でもない。落ち着いた静かな「白さ」、夢のように・けがれない「白さ」は、その胎に、真っ赤な傷を、消しようもなく凡庸で愚かな現実を、宿している。それを恥じるでもなく、悔い改めるでもなく‥‥
まだ日本では知られていない作家。ひとりでも多くの人が、政治でも健康法でも癒しでもないこの本を、いちど手にとって見られることを希望します。
⇒:『すべての、白いものたちの』
シベリウス『交響曲 第4番 イ短調』から
第2楽章 アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ
エサ=ペッカ・サロネン/指揮
スウェーデン放送交響楽団
シベリウス『交響曲 第1番 ホ短調』から
第4楽章 フィナーレ:アンダンテ‐アレグロ・モルト‐アンダンテ・アッサイ‐アレグロ・モルト・コメ・プリマ‐アンダンテ・マ・ノン・トロッポ
マルコム・サージャント/指揮
BBC交響楽団(1958年LP)
民謡調に編まれたシベリウスのシンフォニーを聴いていると、フィンランドのもともとの民謡そのものを、いちど聞いてみたい‥‥という渇望にかられます。
でもそれは、かんたんではない。タワーレコードに行っても、フィンランド民謡は、なかなか出ていない。ユーチューブも、英語で検索したのでは出てこない。
フィンランド語ができないとどうにもならないのかな‥と思っているのですが、ようやく1曲探し当てました↓。民謡といっても、作詞者と作曲者のある曲ですが、聴いてみればまぎれもない民衆歌謡。ハイネ作詞の『ローレライ』みたいなものかな?
『ナルカマーン・ラウル(飢餓の国の歌)』
イルマリ・キアント/詞
オスカー・メリカント/曲
ポリテック・コーア/合唱
「歌詞は、カイヌー地方の伝統的な詩で、カイヌーの自然美と、カイヌーの人びとの忍耐強い性格(シス)、故郷に対する彼らの誇りを描いている。歌詞は、つぎのように始まる:
Kuulkaa korpeimme kuiskintaa,
jylhien järvien loiskintaa.
Meidänpä mainetta mainivat nuo,
koskien ärjyt ja surkeat suot.
われらの森のささやきを聴け
広大な湖水の波しぶきの音を。
それらがわれらの世評を語る
荒々しい急流と陰鬱な沼地を。(Wiki-Eng)
『シス』は、フィンランド人特有の性格を表すことばである。翻訳不可能であるが、「力」「忍耐」「粘り強さ」「諦めないこと」、また、見透せない困難な状況でも発揮される「闘争心」と、言い換えることができる。文化的概念としての『シス』は、フィンランド人のアイデンティティの大きな源泉となっている。
20世紀初め、『シス』の概念は、『シス、サウナ、シベリウス』の3Sとして人口に膾炙され、フィンランド人の自意識を表示した。(Wiki-Deu)」
9 月
庭が悲しんでいる、
つめたく花々のなかに雨が沈む。
夏が慄(おのの)いている
自らの終りをしんとみつめて。
黄金(きん)色のしずくのように葉が
また葉が喬(たか)いアカシアの樹から降る、
夏が驚いたように、死のうとする庭の幻に
力なく笑いかける。
それでも長いこと夏は
薔薇のかたわらに立ち、安らぎを希(こいねが)う、
しだいしだいにその巨きな
疲れきった眼を閉じる。
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