小説・詩ランキング

 



 


 

太郎さんの「本気論文」が出ているというので、

ふだんは絶対に買わない『文藝春秋』を買って、読んでみました。

 

『世界』も『情況』も置いてない書店ですが、

さすがに、これは平台に積まれていましたw

 

以下、感想を少し書いておきたいと思います。

 

 

【1】 消費税廃止と税制改革――「取れるところから取れ」

 

 「れいわ新撰組」のポスターを見ると、↓つぎの8つが、「政権とったらすぐやります」として掲げられています。

 

「①消費税は廃止

 ②全国一律最低賃金1500円政府が補償

 ③奨学金徳政令

 ④公務員増やします

 ⑤一次産業個別所得補償

 ⑥「トンデモ法」の見直し廃止(TPP,水道,カジノ,入管,種子法,特定秘密保護法,派遣法,自衛隊海外派兵,共謀罪,…)

 ⑦辺野古建設中止

 ⑧原発即時禁止」

 

 しかし、今回の論文は①にしぼって論じており(p.103 で、②③にも簡単にふれています)、これが最も重要かつ基本的な政策だということがわかります。税制の変更による格差是正が重要であるだけでなく、そもそも財源がつかなかったら、ほかの政策は何もできない‥ということであるわけです。

 

 この部分(pp.94-100)の要旨は、ほかの人のブログでもたくさん紹介されていますから、項目だけを挙げれば:

 

〇アベノミクスは、デフレを長期化させ、国民生活を圧迫している。その元凶が、(a)消費税、(b)財政出動の不足。

 

〇消費税の廃止によって、低所得者の収入を増やすだけでなく、消費を活発にして投資を呼び込み、また、消費税徴収の圧迫から中小零細企業を救う。

 

〇消費税廃止の財源は2つ: (1)法人税率引上げと累進化、所得税の累進性強化、大企業・投資家優遇措置の廃止、(2)赤字国債の発行。

 

 いずれも、読んでわくわくするような話で、しかも、「福祉がぁ」とか「共生がぁ」とか言わないところが、すがすがしい。じっさいに公平ではないような「福祉」のバラまきや、言葉だけキレイな「共生」よりも、それ以前に、格差と差別を生じさせている根本の部分にメスを入れる発想に、“目からウロコ”の思いがします。

 

 しかし、最後の「赤字国債」には、やはり疑問があるので、それを↓次項でコメントします。

 

 

【2】 解消しない私の疑問: お金は必要なだけ刷ってばらまいてもよいのか?

 

 赤字国債の累積による財政赤字に関して、太郎さんの認識では、「唯一の上限はインフレ[※]」ということのようです。現代貨幣理論(MMT)によっているのでしょう。(これは推測です。この論文では、ケインズ派トービン教授の[※]を引用: p.101)

 

 しかし、小泉政権やアベノミクスが拠ってきた「新自由主義」が(いまや世界で破綻しつつある)経済学理論であるのと同様に、MMTもまたひとつの経済学理論です。財政出動を正当化する理論としては、古くはケインズ理論もあります。マルクス経済学には、また別の考え方があるでしょう。

 

 さまざまな理論が競い合っているなかで、そのうちどれかひとつに依拠しすぎるのは、危険ではないか?―――というのが、私の疑問なのです。

 

 自然科学とは違って、経済学などの社会科学では、さまざまな理論が、それぞれ自分だけが正しいと主張しているだけで、どれが「ほんとうに」正しいのか判断できるような基準は無いように思われます。私も学生のころ(文科系だったので)からその後にかけて、このことにたいへん悩んでいた時、バートランド・ラッセルの論文を読んで、一条の光が差し込んだ思いがしました。

 

 ラッセルが言うのには、現在の社会科学は、自然科学でいえば、ガリレイ以前の“魔女狩り”の時代なのだと。おそらく遠い将来には、自然科学と同じように、何が正しいかを客観的に決められるようになる。自然科学の「実験」にあたる手続きが確立されるにちがいない。しかし、いまはまだ、そういうものはないのだ、と。(じつは、日本でも、宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』で、同じことを言っています。おそらく賢治は、当時来日したラッセルの講演を、雑誌で読んだのでしょう)

 

 ラッセルを読んだあとで、もうひとつ重要なことに気づきました。たしかに、理論ということになると、どれが正しいのやら、誰にもわからないのが現状です。いまはまだ、「諸子百家」の時代が続いているのです。しかし、理論を組み立てる材料になるような「事実」に関しては、比較的に客観的な判断が可能である。何が事実なのかを判断する方法に関しては、社会科学でもすでにさまざまな技術が確立していて、それらは十分ではないけれども、ある程度客観的な結論を得ることができる。少なくとも、同じ土俵に立った議論はできる水準に達している。

 

 そういうわけで、理論よりも‥‥さまざまな理論を学びはするけれども、どれを正しいと決めるのは諦めて‥‥まず、事実を追いかけようではないか。事実の中から“妥当な”線を引き出すようにしたらどうだろうか。。。 私はこれを、朝鮮儒教の一学派に倣って、「実事求是(シルサグシ)」と名付けました。

 

 この「実事求是」の精神で、「赤字国債」について考えると、日本には、忘れてはならない歴史的事実がいくつかあります。

 

 第2次大戦直後、日本は猛烈なインフレーションに襲われました。戦時中に、ふくれあがった戦費を調達するために、紙幣や軍票(軍隊で通用する紙幣)を無制限に発行したためです。貨幣を無制限に発行すれば、貨幣価値が下がってインフレーションになる。戦時中の統制経済の下では、貨幣の流通が少ないために顕在化しなかったのですが、戦後になって市場経済が復活したとたんに、一気にインフレが爆発したのです。(注意すべき点は、貨幣の大増発とインフレ発生のあいだにタイムラグがあったことです。タイムラグが戦時統制経済のためだとすれば、今の経済には当てはまらないかもしれません。しかし、戦時でなくとも、インフレは、発生してからでは遅いのだ、とも考えられます。タイムラグの存在自体を重く受け止めるべきです。)このインフレを収束するために、アメリカからドッジ氏という銀行家が派遣されてきました。彼の行なった強行策が「ドッジ・ライン」です。簡単に言えば、市中の貨幣を吸い上げるために、情け容赦のない増税と、その暴力的な取り立てが行なわれました。結果として、多くの自刹者、餓死者、ヒロポン中毒者を出したかわりに、インフレは終息したのです。

 

 インフレの恐ろしさは、インフレ自体もさることながら、それを収束させるために行われるデフレ化政策の過酷さにあります。そんなことになれば、「れいわ」の格差是正政策など、何倍も逆の結果になって返ってくるでしょう。。。

 

 もちろん、当時と現在とでは、経済のおかれた環境条件が、まったく異なっています。同じことが起きるとは限らない。しかし、起きないとも限らない。それは誰にもわかりません。さまざまな理論が、さまざまなことを言うだけです。だから、MMTに従って“やってみる”のはよい。しかし、思わぬ結果になる場合もあることは、常に念頭におく必要があります。(なお、インフレ危惧論への反論として太郎さんが示しているのは、参議院事務局の推算によるシミュレーションです: pp.102-103. シミュレーションは、参議院だろうと財務省だろうと、一定の理論と仮定条件を前提とするものです。当たるとは限らない。理論ではなく事実に依拠すべき、というのが私の立場です。)

 

 太郎さんへの疑問を、もう少し書いておきますと、太郎さんは、財政出動で貨幣を増やすと(赤字国債の発行は、貨幣を増やす方法のひとつです)、ゆるやかなインフレになるとともに景気が良くなる、過熱しすぎてインフレがひどくなったら、課税を増やして貨幣を減らせばよい―――このように単純に考えておられるような気がします(そうではないかもしれませんが)。しかし、貨幣(マネー・サプライ)というものは、銀行券を刷って撒いたら増えるというような、簡単なものではないのです。まず、貨幣には退蔵される部分があります。つまり“タンス預金”です。個人だけでなく、銀行が貸し渋って貯めこむ“タンス預金”もあります。政府がお札をいくらばらまいても、みな退蔵されてしまったら、経済効果はありません。(そればかりか‥、退蔵された貨幣が、しばらくしてから一斉に市中に出てくれば、予期しない爆発的なインフレが起きるでしょう! ↑上で見た“戦後インフレ”の爆発は、まさにその例証だったと言えます。)また、貨幣(マネー・サプライ)の実質量は、貨幣発行高×回転率です。景気が良くなれば、取引が増えて回転率が上がりますから、同じ発行高でもマネー・サプライは増えて、徐々にインフレになります。政府がカネをばらまくから景気が良くなるのではないし、インフレになるのでもありません。

 

 政府が赤字国債を発行して“あぶく銭”をいくら増やしても、景気は落ちこむ一方で、物価だけが急速に上がってゆく場合もあります。企業の収益は減り、給料は上がらず、買うものはどんどん高くなる(スタグフレーション)。まさに、“泣きっ面に蜂”です。太郎さんが誕生した 1970年代が、ちょうどそういう時代だったと思います。だから、太郎さんは、そういう状態を(物心つく前なので)体験しておられないのではないでしょうか。

 

 スタグフレーションになった原因については、これまた、いろいろな理論がいろいろなことを言っているでしょう。当時は、労働組合が賃上げを要求するからだ”という意見が幅を利かせていたようです。そのために、労働組合や、組合と提携していた社会党、共産党、また進歩的な学者や知識人への風当たりが強くなり、ちょうど社会主義圏の崩壊と重なったので、“サヨク敵論”が一世を風靡して、日本を、現在のような・だらしない国にしてしまったわけです。

 

 しかし、スタグフレーションがなぜ起きたのか、十分に分かっているわけではないと思います。労働組合がなくたって、スタグフレーションは、起きる場合には起きると考えなくてはなりません。

 

 

【3】 “現実政治”への期待

 

 そういうわけで、「赤字国債」への疑問だけは、今回の論文によっても解消しませんでした。

 

 しかし、今回非常に希望をもったのは、この論文全体として、山本太郎さんの姿勢に、たいへん現実的で柔軟な面を見ることができた点です。たとえば、太郎さんは、↓つぎのように書いています。(p.99)

 

 

「ただ、この内部留保に課税すべき、という考えには反対です。〔…〕ある意味、内部留保は企業が法人税減税のために努力した結果です。何を努力したかと言えば、政治を動かした。自分たちの考えを代弁してくれる政治家を大量に国会に送り出し、多数派を形成した。これが政治というものです。

 

 〔…〕税制改革は、大企業の皆さんの理解を得ながら進めていきたい。だから、貯め込んだ内部留保には手をつけない。代わりにその内部留保を、国がこれまで投資を怠った結果、ボロボロになってしまった分野――保育や介護、教育などに投資してもらえませんか、と呼びかけます。その時に初めて、大企業への投資減税なども考えられるでしょう。」

 

 

 このように現実的な感覚をもった政治家が中心にいて、その現実性を理解する人たちがまわりにいる政権ならば、“理論倒れ”になることはないでしょう。MMT理論の欠点が現れた場合にも、迅速に対処し、また方向転換することだって、期待することができると思います。


 そこで、もしかしたら必要になるかもしれない“方向転換”のために、ひとつ提案をしておきたいと思います。このブログが、「れいわ新撰組」の方の眼にふれるとよいのですが。。。 

 

 太郎さんは、昨年、立憲の何人かの議員とともに、消費税を廃止したマレーシアの視察に行かれたそうですが、もしも今後可能であれば、逆に消費税を全面的に導入しているEUにも、行ってみられてはどうかと思います。消費税の終局の形態も見ておかれるほうがよいと思うのです。EUの消費税は、じっさいには物品税やサービス税に近いものです。つまり「贅沢税」です。しかも、贅沢品の税率が極めて大きい。日常的なものとしては、菓子や玩具。ヨーロッパを旅行したことのある人は、売店で売っているキャンディーの値段を見て、びっくりした経験があるはずです。消費税がたどりつく形は、このようなものにならざるをえないということです。


 法人税・所得税の増税には限界があり、赤字国債も無制限ではない、ということになれば、物品税・サービス税に財源を求めることもありうるかと思います。どんなものに高い税率をかけると、どういうことになるのか? EUの経験は、詳しく学ぶ価値があると思うのです。

 

 

 

 

 よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記

 こちらは自撮り写真帖⇒:
ギトンの Galerie de Tableau