また概念的なこと書きます。

 

全員が認識しているように、情報はもはやいつでもどこでも手に入ります。

スマホネイティブな子供たちはそれが当たり前で育ってきます。

 

どうしても表層的な情報だけを徘徊します。

つまり、深度1のところをつなぎあわせる。

でもそこから上にも下にも行かないで済む。

 

本当は具体的事象から抽象(汎用・一般化)して、それを別の具体にしていくという作業が必要なのですが、そういう訓練ってどうやってやればいいか実はわかりません。

それらは上の方法、「要するに」「つまり」「共通することは?」という思考です。

一方、下の方向とは「それ、ほんとなの?」「え、どういうこと?」という深堀りする思考です。

私も小学6年生の受験生を子に持つ親で、国語を一緒にやりますが、「要するに」をどうやってできるようにさせられるかがわかりません。

しかし、難しくはありますが、そのような訓練をクリアできた人だけが、大人になって「要するに」ができます。

大人になっても「要するに」ができない人もたくさんいます。

でもそういう人はもはやそれができないことにおそらく気づいていないし、その重要性もわかっていません。

なぜならそれで何十年も生きて来られたからです。

 

また、これもよく言われますがメディアリテラシーの能力。

情報を疑う能力と言ってもいいでしょう。

すべての情報に裏を取るのは不可能なのでこれも結局どうしたらいいかわかりません。

盲目的に信じて、なにも考えずに「いいね!」ボタンを押した方が刹那的には合理的です。

そんな中、わざわざその真偽を確かめる人は少ないでしょう。

行政書士でも私にアドバイスを求めてきて、回答すると「それで大丈夫ですかね?」と安易に私に責任を求める人がいます。

いやいや、役所に裏を取るのは受注者のあなたでしょ、と注意します。だって万が一の場合に責任取るのはその人だからです。

その場だけなんとかクリアして、本当のゴールが見えてないのです。

その時点でヒヤリハットです。

常に刹那的な効率を効率的だと信じて生きているから、少し先の未来を想像できない。

そういう特質は大げさではなく、死ぬ手前まで行かなければ直りませんし、場合によってはそこまで行っても直りません。

当然、私にも死ぬ直前まで行っても直せなかった特質があります。

そういう人間の限界についてはビクトールフランクルの「夜と霧」を読むと腑に落ちると思います。

 

スマホのニュースアプリは超便利なのでしょう。

でもそれは「深みに行かない訓練」を毎日絶えず行っているということを併せて自覚する必要があります。

深度レベル1にい続けたら、それがすべてだと洗脳されて、もう上にも下にもいけません。

 

自身に対しての疑問力が小さい人は、自身の正当性を「これまで生き続けてきた」の一点に根拠を見出します。

そうなるとなんでもアリです。

しかも年齢を重ねれば重ねるほど、その思いの傾向は強くなります。

なぜなら人間はみな、自分の人生を肯定したい生き物だからです。

正しい正しくない、やるべきかどうか、そんな正論はそのような人には存在しません。

しかし、人間という生き物は全員多かれ少なかれそういうところがあります。

ちなみに今、「好き嫌い 行動科学最大の謎」を読んでます。

要するに世の中は正誤で動くのではなく好き嫌いで動いているということです。

私自身は30歳半ばまで「正論で世の中動くべきだ」とおそらく一般よりかなり強く期待して生きてきた方だと思いますが、JCに入ってそれが違うということを本当に思い知らされました。

そういった意味においてはJCは私にとってものすごく価値のある場でした。

 

「自分は大丈夫」と安易に思うのではなく、自分もそのような堕落的な生き物だから疑いすぎるくらいの方がちょうどいいのだと私は思います。