曹洪の生涯を最期まで解説!金と女好きな人物だったのかも紹介

三国志

三国志に登場する武将:曹洪について解説していきます!

曹操軍の中でも、親族として数々の戦場で活躍したのが、今回ご紹介する曹洪です。

その生涯は詳しく知られてない一方で、金や女に目が無かったという逸話も残っていることが有名ですね。

そこで今回は、曹洪の生涯について、知られているエピソードや逸話を交えながら最期までご紹介していきたいと思います。

曹洪の生涯を最期まで解説!

曹仁と並んで、曹操軍の中でも数多くの戦場に参加しているのが曹洪です。

曹操の旗揚げ時から彼を支え、後に国の中でも重要なポジションにまで上り詰めています。

要所の戦いで曹洪が登場していることはわかりますが、通算してどのような生涯だったのかを知る人はあまり多くないのではないでしょうか。

早速、曹洪の生涯について見ていくことにしましょう。

生誕~曹操独立まで

曹洪の生年は不詳ですが、曹操ら親族と同じ豫州沛国譙県で生まれています。

若い頃は叔父が尚書令(皇族の秘書官)だったというコネから県令(県の長官)に抜擢され、職務についていました。

その後、曹操が190年に反董卓のために旗揚げした際、夏侯惇とともに馳せ参じ、曹操配下の武将となっています。

徐栄との戦いで敗走した曹操に、自らの馬を渡したり、危険を顧みず渡し船を漕いだりと曹操の脱出に大きく貢献しました。

 

曹操独立後、呂布の攻撃に乗じた張邈の反乱時には飢饉に対処すべく兵站を確保することに奔走。

呂布軍を退けた後は、反乱に加担した周辺の地域を平定し、曹操に評価されています。

196年に献帝が長安を脱出した際に迎えに行く部隊として任命、実際には董承が邪魔をしたせいで叶いませんでした。

後に献帝が曹操に保護された後、曹洪はそれまでの功績を評価されています。

袁紹との戦い~各地を転戦

200年に起こった袁紹との戦いにおいて、曹洪はその中でも一番大きな戦となった官渡の戦いで徐晃とともに活躍。

逆転をかけた烏巣強襲作戦中は官渡本陣を防衛し、猛将:張郃・高覧の攻撃を防ぎ切り、2人の降伏にまで結びつけたのです。

河北平定後、荊州の劉表へと視線を向けた曹操軍の一隊として、曹洪はまたしても戦果を挙げ次々と劉表軍を破っていきました。

この働きを受けて曹洪は評価され、厲鋒将軍の称号を得ることになったのです。

 

赤壁の戦い後も曹操の転戦に付き従い、戦果を挙げています。

三国志演義でも潼関の戦いに参戦している描写が描かれるなど、曹操軍の中でも重用され、各地を動き回っていたことが伺えますね。

217年に起こった下弁の戦いでは、迫りくる張飛の軍隊を総指揮官として打ち破っています。

曹丕即位後~最期

220年に曹丕が即位すると、曹洪は将軍位の中でもかなり上位となる衛将軍や驃騎将軍に昇進。

しかし、このころから曹丕に疎まれたことも重なり、徐々に一線を退いていくことになります。

226年に曹叡が後を継いだ時には再び驃騎将軍に任命された曹洪でしたが、その後は年齢もあり目立った活躍は無かったそうです。

そして232年、曹洪は天寿を全うしたのでした。

曹洪の金と女好きな人物像・性格を解説

ここまで曹洪の生涯についてご紹介してきました。

戦場に出ていたころのエピソードが多く、晩年の活躍があまり資料としても残っていなかったことが、曹洪の生涯を知ることが難しい要因であることがわかりましたね。

ここからは曹洪に関する人物像や性格について、エピソードを交えながらご紹介していきたいと思います。

ケチが原因で曹丕と不仲に?

曹洪に関するエピソードで一番多いのはお金に関する話です。

とにかく金にがめつく、ケチだったことが記録として残っています。

曹丕が即位する前の一家臣だったころ、曹洪に絹(当時お金と同等の扱いだった)を借りようとした時に、曹洪が断っているエピソードがありました。

後に曹丕が皇帝になった時、そのことを根に持っていたことから曹洪が所領と官位を剥奪されるという事態にまで陥ったことも、記録として残っているそうです。

女好きを表すエピソード

そしてもう1つ衝撃なのが、曹洪の女好きに関するエピソードです。

下弁防衛線で張飛を破った後、その戦勝会で曹洪は女性に舞を躍らせたのでした。

その時の服装がかなりキワどく、付き従っていた楊阜が大衆の目があるからと諫め、舞を辞めさせたそうです。

曹操も曹洪の功績は認めつつも、お金と女癖の悪さは欠点として把握していたため、付き従う武将や文官にはそのことを告げてサポートするよう影ながら言っていたぐらいでした。

曹洪の後代の子供はどうだったのか

上記のエピソードの他にも、宴会で親族の曹真がバカにされた時にあろうことが同調するというエピソードも残っている曹洪。

戦場での活躍とは裏腹に、私生活での性格はあまり褒められたものではありませんでした。

曹洪には曹馥と曹震という2人の子供が後代として記録に残っていますが、この2人については曹洪の性格を受け継いでいたという記録は残っていません。

そもそも詳細な記録自体が残されていないので正確な情報はわかりませんが、おそらく同じ性格ではなかったのではないかと思われます。

まとめ:私生活とのギャップが激しい武将だった!

今回は三国志に登場する武将:曹洪についてご紹介してきました。

戦続きの生涯で上位の将軍位にもなれたという、優れた武将だったようです。

一方で、お金と女性が大好きという、私生活とのギャップが激しい武将であることも描かれていることがわかりました。

表と裏のある武将ですが、その点がより三国志ファンを引き付ける要因になったと言えますね。


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