社会福祉士コラム

【小説風事例紹介】忘れんよ。また笑って会わんといけんのやからね。幼馴染のIさんとNさんが過ごした大切な時間

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1.デイサービスの世話好きなおばあちゃんとグループホームの優しいおばあちゃん

私がグループホームでユニット管理者兼、相談員兼、介護職として働いていた頃の話です。そのグループホームでは、9人2ユニットの合計18名が生活していました。また、グループホームから徒歩10分以内の場所に、同法人の20人定員のデイサービスがあり、月に1度の交流会や合同の誕生日会などのイベントを行っていました。

 

私の所属していたユニットにNさんという方がおり、歩行困難で車いすでの生活をされていました。当時80歳でしたが、73歳の時、農作業中にトラクターから落ちてしまい腰部の圧迫骨折をされ、それからは車いすでの生活を送っています。

 

Nさんは穏やかな性格をしており、作業提供を依頼すると嬉しそうになんで手伝ってくれました。また、円背であったため、テーブルの上での作業は困難でしたが、オーバーテーブルなどで高さの調整をする事で、料理や衣服たたみなど様々な作業を行ってくれました。

 

私はNさんの計画作成担当者だったため、Nさんのプランはおおよそ把握していました。その中に、デイサービスとのイベントの時には「必ず指定の席にする」という項目がありました。それは友人であるIさんの隣の席です。NさんとIさんは近所に住んでおられた事や婦人会で昔から仲が良く一緒によく旅行に行っていたとの事で、2人ともこの交流会を楽しみにしていました。また、在宅で1人暮らしをされているIさんは、グループホームから徒歩20分程度の場所に住んでいるため、デイサービスが休みの日には買い物の帰りに休憩という名目でNさんの面会に来ていました。

 

Iさんは83歳で歩行器を使用して歩いていますが、背筋がいつも伸びており、見た目よりも随分と若く見えます。しかしCOPD(慢性閉塞性肺疾患)であったため、常に酸素ボンベを歩行器に入れ移動していました。よくグループホームにも来所していましたので、ボンベ残量が少ない場合は、デイサービス職員への申し送りを行っていました。

 

またNさんが自身の洗濯物をたたんでいると「一緒にやってあげよう。これも私のリハビリよ」と笑顔で手伝っていました。それに対して、私たちが労いの言葉をかけると「手を動かしながら口も動かす。これがなくなったら私はボケるよ」とNさんと大笑いしていました。

 

Iさんが色々と手伝いをしてくださっていると「あなたは昔から手を動かす時間より口を動かす時間の方が多くないかね」と笑って話されていました。

 

そんな二人が必ず別れ際に合言葉のように話されていた言葉が「次も元気に合わんといけんね」でした。

 

2.Iさんの転倒

そんなIさんが2週間ほどNさんの面会に来られない事がありました。私たちとNさんは「どうしたんかね」と話していました。季節が12月という事もあり「風邪でもひいたんかね。こじらせてなかったらいいけど…」などと話していました。

 

私もいつも来所されるはずのIさんが気になり、デイサービスの職員に確認をすると夜間帯にトイレに行こうとして転倒し、右大腿骨頚部骨折(右ふともも)右上腕骨骨折(右上腕)をされているため、現在は病院に入院していると聞きました。

 

また、1人暮らしという事もあり、発見されたのは翌日のデイサービス職員の送迎でした。6時間もの間、床から起き上がれないままの状態であったことで、肺炎も併発しており、今後の在宅復帰は困難ではないかとの事でした。

 

季節柄インフルエンザ蔓延予防のため、施設として面会ができないとなっていたことから、NさんはIさんが面会に来られないのはインフルエンザのせいだと認識してくれました。しかし、Nさんは作業を依頼すると引き受けてはくれるものの、窓の外を見て過ごされる時間が多く、あまりフロアにも出て来なくなりました。

 

また、フロアに出て来たとしても「今日はしんどいから行きたくない」などのネガティブな発言が多くみられるようになりました。

 

私はNさんの廃用性症候群を危惧して、職員の声掛けや積極的なアプローチを依頼しました。その声掛けの中にも、次にIさんが来られる時に元気な顔を見せるためになどの動機づけを行っていました。

 

3.Iさんのグループホーム入所

Iさんの入院から2カ月が経過した頃、Iさんのケアマネジャーより連絡があり、Iさんから入所の希望があるとのことでした。1室ほど空床もあった事から入所検討会議を開き、Iさんの入院後の経過と現在のADLなどの情報共有を行いました。その際に市外に住んでいる長女様も来所され、施設内の見学を行いました。

 

Iさんの退院時の意向としては在宅復帰でしたが、長女様も結婚しており高速道路を使用しても1時間半かかってしまう場所に住んでいるため、「また在宅で転倒していて何かがあったら困る」と病院でけんかをしてしまったとの事でした。

 

その際に、ケアマネジャーより「在宅復帰をするにも段階をおって在宅復帰するべき」とIさんに話しており、「どうしてもどこか施設に行かないといけないならNさんのいるところにしてほしい」との意向があったとの事でした。

 

私は長女様・ケアマネジャーに施設内を案内していると長女様がNさんに気付きました。長女様はNさんに「おばちゃん?わかる?Iのところの○○です。小さい頃によくしてもらった」と話かけ、Nさんは長女様を見ると涙を浮かべて抱きしめようとされました。

 

長女様は「今度ね、母がここで生活することになるかもしれないから私が見に来た」と伝えると、Nさんは黙って何度も頷いてから「何も言わずにIさんが来なくなったから、先に逝かれたのかと思ってた」と言いました。

 

Nさんは、私たちがNさんを気落ちさせないために嘘をついて黙っているに違いないと思っていた様でした。

 

そこからIさんの入所に向けての退院カンファレンス・介護度の変更申請などの手続きを行いIさんがグループホームに入所されることになりました。

 

4.再会と生活の変化

Nさんは、Iさんの長女様と話しをした後から「Iさんが入所されるのであればこのような姿を見せるわけにはいかない」と少しずつではあるが生活に活気が出る様になりました。

 

そして、3週間後Iさんの入所当日、Nさんはフロアに出て以前とは違う表情で窓の外を見て、Iさんの到着を待っていました。玄関にIさんが乗った車が停車するのが見えると、Nさんは足漕ぎで車いす自走をして、玄関に向かおうとしていました。私はそっと近寄り「迎えに行きましょうか」と寄り添いました。ここ2カ月、私の記憶する限りでは車いすの自走をされる意欲はなかったので、彼女たちの友情はよほど強いものなのだなと感じました。

 

しかし、Iさんは以前のようなIさんではありませんでした。以前の様に「買い物帰りに寄ったよ」と話しておられた姿はそこにはなく、車いすに乗り病衣のままで、弱々しくNさんに手を伸ばして、か細い声で「Nちゃん、会いたかったよ。ずっと来れなくてごめんね」と声をかけられました。

 

退院カンファレンスの際に、転倒されて発見されるまでの間に肺炎を起こしており、既往歴のCOPDもあった事から在宅酸素も2リットルから3.5リットルへ変更したと聞いていました。また、長女様が施設の見学に来られた後に、仙骨部に継続的発赤があり、褥瘡の発症も高リスクとの診断を受けていました。

 

医師からは「いつ何があっても対処できるようにはしておきますが、御家族も覚悟はしておいてください」と話しがあったそうです。そのような状態であるため、退院時には在宅で暮らしたいと話せる元気はありませんでした。

 

しかし、NさんはIさんの手を取り「ええ、ええ、次があったんだから、それでええんよ」と涙を流しながら再会をしました。

 

Iさんはデイサービスに来所されていた時は介護度2でしたが、退院時の変更申請では介護度5と判定されました。立位は取れず大好きだったお風呂もシャワー浴のみ、食事形態も常食から一口大のお粥、汁物もトロミでの対応でした。病院では寝たきりの状態が長く続き、リハビリも拒否される事がほとんどでした。食事量も提供量の5割未満がほとんどだったとの事でした。

 

私は、本当にこうやって変わり果てた姿で再会させてしまう事が正解だろうかと心底悩みました。しかし、Nさんは「Iさんには昔から色々と助けてもらったね。ここに来てからも寂しかろうって会いに来てくれたね。やっと私がお返しできるんやね」とIさんの手を握られていました。私の眼には彼女たちが生き別れた姉妹の様にも映るほどでした。

 

それからNさんは、Iさんとの時間を大切にするように過ごしていました。朝起きると洗面を行い、御主人の遺影を拝み、必ずNさんを訪室して朝のあいさつをします。食事の時には「今日の魚はおいしいよ。Iさんも食べてごらん」、洗濯物も「私がIさんのをたたもう」と話していました。

 

Iさんは、Nさんがタオルを1枚たためた事も自分の子供が初めてお手伝いができたかのように「すごいね」と彼女を褒めていました。Iさんの元の性格からか、なるべく自分の事は自分で出来る様に、少しでもNさんの手間にならないようにとがんばっていました。

 

5.廃用性症候群と生活リハビリ

Iさんは入院中のベッド上での生活が長く、身体的にもADLの低下が見て取れました。右上腕骨の骨折をしてから、箸よりもスプーンを使用することが主となり、そんな自身に対して落胆しているのが見て取れました。以前は積極的に誰かの手伝いをしていた彼女が今では誰かに手伝ってもらわなければならない立場になってしまったからです。

 

Iさんは入所当時から意欲的なれませんでしたが、Nさんが常に励ましの声をかけ、笑顔で接する事から少しずつ自分のチカラで出来る事を行われる様になっていました。

 

Nさんも居室から出たくないと話されていたのが嘘のように、Iさんが困っていれば手助けをしたいと申し出られ、IさんはNさんが何かができると子供の成長を喜ぶ親のように笑顔で接しておられました。

 

二人ともが互いに失ってならない物を再度手に入れた様に、少しずつではあるが変化していました。

 

ある日、私が入浴介助の担当となった時にふいにNさんとIさんの話になりました。私が働いていたグループホームは個浴対応だったため、本当の意味で1対1でのゆっくり話しができるのは入浴の時でした。

 

「Nさん。いつもIさんの事を気にかけてくださってありがとうございます」と伝えると「私はね。Iさんとは学校に行く前からの友達で本当に姉妹の様に育ってきたの。私らはこの歳で人に迷惑をかけることしかできない。だから手伝いができる事があれば手伝いたいと思うしありがとうと言ってもらえる事に申し訳なさを感じる」

 

私が話そうとするとNさんは遮るように話しを続け「私らは、いつも次は会えないかもしれん。だから元気で会おうねって話してたの。Iさんがここに来れなかった時にあなたたちから本当の事を聞きたかったよ。いつ死ぬかわからないからこそ嘘をつかれるんじゃなくてありのままを言ってほしかった。でも、また会わせてくれたのもあなた達だから本当に感謝してるよ。迷惑じゃないなら今後も私は今してるみたいにIさんの手伝いをしたい。だめかね」と。

 

私は正直、ずるいと思いました。断れるはずがないと思うと同時に、彼女の今の生き甲斐はIさんを手助けする事なのだと分かりました。

 

私はアセスメントを行う中で重要なのは『今まで何をしてきた人』ではなく『今から何をしたい人』なのかということに改めて気づかせてもらったと思います。

 

私はこの入浴での会話をカンファレンスに取り上げ、Nさんの意向を職場の仲間に伝えました。それと同時にIさんにもこれからどのように生活したいかの聞き取りを行いました。Iさんは「なるべくなら自分の事は自分でしたい。妹のように思ってきたNちゃんに迷惑ばっかりかけたらいけん」と彼女もNさんを想う言葉を聞くことが出来ました。

 

私たちはどのように彼女たちを支えるかの検討会議をケアマネジャーと家族を交えて行う事となりました。Iさんには身寄りがなく、弟様がいましたがすでに施設入所していたため、後見人に参加をしてもらいました。

 

結論から言うと『残りの時間を好きな人と好きなことをさせてあげてほしい』でした。Iさんは終末期に近く、医師からは本来であれば特別養護老人ホーム等への入所を勧められていました。Nさんもそれを悟ってか、Iさんの近くから離れたくない様子でした。

 

彼女たちがあと10年、20年生きるなら今後を考えなければならない。しかし、それは現状を考えると非現実的なのは明確です。そうであれば彼女たちが自分の生き方を大切にできる終末期を支えてあげられるサポートをするべきと結論が出ました。

 

私たちは安全の考慮をしつつIさん、Nさんが二人でおられる時間の介入度を減らしました。時には他のご利用者様も交えて3人での談笑の時間も作りました。彼女たちが1秒でも多く好きな時間を過ごすことができる様に。

 

グループホームでの散歩の時間には職員2名対応で、2人の家の近所まで車いすを押して散歩に出かけました。

 

昔よく食べていたと話され、また食べたいねと言っていた地元のお饅頭屋さんのお饅頭、昔よく一緒に飲んでたねと話されていた梅昆布茶など、2人での時間を支えてあげられるために私たちができる事はそれくらいでした。それでもNさんは嬉しそうに「Iさん。なつかしいね。こんなの用意してくれたよ。また一緒に食べれるね」と話しかけるツールになってくれていた。Iさんもそれに小さく応える。そんな2人のやり取りを私たちは見守りました。

 

6.看取り 本人・家族・友人

ある日、Iさんが熱を出してしまいました。最初は微熱だった事から経過観察を行う事になりましたが、微熱は3日間続きました。私たちは協力医の往診を依頼し、往診後にレントゲンの撮影のため長女様と共に受診する事となりました。

 

結果、再び肺炎になっていました。別室で私と長女様と医師が話し、おそらく入院すれば退院する事はないとの見解でした。長女様が「最後は母に決めさせてあげたい」と本人の意向を聞くことになりました。

 

Iさんは入院に対しては首を横に振り、しんどいけどNちゃんの近くに帰るかねとの問いかけに小さく頷きました。施設へ帰ると、Nさんが不安そう「危ないんかね」と声をかけられました。

 

私は「いつというのはわかりません。でも今までIさんがここで幸せに生きておられるのは間違いなくNさんのおかげです。先生もIさんがここまで元気で過ごされるとは思っていなかったようです。今からもNさんのそばにいてあげてください」と伝えました。

 

Nさんは長女様に「私はこんなだからIさんに何かがあってもお葬式には行けない。もし何かがあった時にはここからのお見送りはさせてほしい」と話していました。長女様は黙って頷きました。

 

それから3日間、長女様は毎晩仕事が終わった後に面会に来ており、4日目の早朝、Iさんは息を引き取りました。静かに寝息を立てているような安らかな最期でした。

 

早朝ではありましたが、私も協力医も長女様もすぐに施設に向かいました。横たわっているベットの背中を触るとまだほんのり温かい。「最後の温もりです。お母さんを感じてあげてください」と伝える。長女様は背中に手を入れて温もりを感じた後に「Nさんにも触らせてあげられませんか。母との約束です」と言いました。

 

私はさすがに迷いましたが、入浴介助中にNさんが話されていた言葉を思い返し、Nさんのところへ向かいました。Nさんは黙って頷かれ「わかってるよ。来てくれてありがとう」言いました。

 

Iさんの居室を訪室されたNさんは泣き崩れることもなく「しんどかったね。本当にありがとうね」とIさんの頭を撫でました。背中の温もりの事を伝えるとそっとベットの中に手を入れて「忘れんよ。また笑って会わんといけんのやからね」と言いました。

 

それから私たちは死後処置を行い、施設よりの出棺までをNさんと共に見送りました。

 

7.2人の絆と葛藤

Iさんの退所は死後3日後の事でした。荷物を整理する中で長女様からNさんに遺品分けをしていいかと聞かれ、私たちは訪室しました。Nさんは、Iさんがずっと使っていたお茶碗と湯飲みを希望しました。

 

ご主人の遺影の隣に置きたいとのことでした。長女様も「きっと母が喜びます」と言ってNさんに手渡しました。

 

長女様は、退所の手続きを行っている中で「あの時に母をここに入所させて良かったと思います。本当は私の住んでいる地域の特養も探していたんです。でも、母は最期まで母らしく過ごせたと思います。私たちの勝手で職員さんにはご迷惑ばかりおかけしたと思います。本当にありがとうございました」と話してくださいました。

 

Nさんは毎朝の日課のお経と共に「今日も元気に目が覚めたよ。次会う時も笑って話さんといけんね」とお茶碗と湯飲みを見ては話しかけています。

 

そして、時折「あなたにはわがままばっかり言ってしまったね。でも、私は後悔してないよ。最後を見送らせてくれてありがとね」と何度も何度もお礼を言っています。そして、お茶碗と湯飲みを眺めては少し寂しそうに笑顔を見せています。

 

私は支援者として、このケースで様々な葛藤がありました。入院後のADLをサマリーから読み取った時に、本当に2人を会わせてしまっていいのか、NさんがIさんのそばを離れたがらなかった時に依存症になっていなかったのか、入浴時Nさんの意向を聞きIさんの意向と照らし合わせた際に彼女らの意向が正解だったのか、Iさんの看取りにNさんを立ち会わせショックを受けなかったか、これが本当に彼女らの尊厳ある「今を生きる」なのか。

 

彼女らの生き甲斐がなんだったのか、それを奪われた時の彼女らの消失感を考えれば、彼女らから生き甲斐を奪わなかった事は正解なのかもしれません。しかし、同時に彼女らの中に別の消失体験が生まれるかもしれない恐れはありました。

 

しかし、この答えは私の中にはないと今の私は思っています。答えは彼女らの中にしかありません。私は介護職員として彼女らと接し始め、相談員を経て、ユニット管理者へとなりました。彼女らのケースが私を大きく成長させてくれたと思っています。

 

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