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2019年03月18日

81.趣味のこと ~71ただの”歌”という視点から~

さて、今回も、いや今回、素人でなければ
むしろ語れない視点で歌について語っていこ
うと思っています。

どういうことかというと、オペラとかポップ
スとか演歌とか、いわゆるジャンルを取っ
払った視点、ただという視点だけで論じよ
うということです。

というのも、もちろん私自身が歌のどの分野
にも残念ながら精通していないということも
ありますが、ネット上の発言を見ても、どう
も優勢なのは、各ジャンルの違い強調する
視点のように思われるからです。

「オペラとポップスでは、全然(発声が)違う
とか、あるいは演歌もまた全然違う、云々」
ですね。

いや、そんなこと当たり前じゃないか、また、
多くのその道での熟練者がそう感じている
に、それを素人が否定するのは馬鹿げている
んじゃないかということになるかもしれませ
ん。

ま、でもそれだけに誰も言わないんじゃない
かということもあり得ると思うからですが---。

でも、私の言いたいのは上記の発言を否定す
る趣旨というよりも、ただ、違う、の一言で
言い表わされている言葉の意味を限定したい
だけです。

たしかに結果として出てくる表現自体は違う、
それは正しいでしょう。

聴こえてくる声の感じもまるで違うと、そう
感じるのだから、それは仕方がありません。

でも、違いだけ強調しても、―それはすでに
これまでにも散々言われてきたことだろう
し、ーそういうことで何か新しいことが学べ
なんてことがいまでもあるのか、と思うわ
けです。

言い換えると「オペラとポップスは全然違う
よ」という発言そのものが、何か自分のオペ
ラなりポップスなりの発声を前進させるのに
実際に役立つ発言なのかということです。

「いや、そんなこと、結果が違うのなら、
が違うのなら、それ以上何を言うことがあ
るのか」と思われるかもしれません。

しかしこういうこともあるでしょう。

たしかに結果としての表現はまるで違ってい
たりすることもあるでしょうが、発声で使う
体の部位については、むしろほとんど同じで
はなかろうかと。

ただ、ほんのちょっとの使い方の違いで、表
現結果は著しく違う、私も日々体感していま
すし、音楽とはそういうものでしょう。

したがって、ほんのちょっとした違いを、
きいと感じる感覚
がないと、大雑把だと、た
しかに探求が進みません。

ただ、それは表現結果に着目しただけで、使
用部位
から見ると、当然同じ人間なので、同
じ発声器官を似たような使い方をして、やっ
ている、ただほんのちょっとした違い、もっ
と端的に言えば、使用部位のほんのちょっと
した場所のずれが、大きな表現結果の違いを
もたらすのが、いわゆる”声楽”だとの視点を
持てれば、ものの見え方も変わってくるので
はないかと。

つまり、A派、B派の論争を見ても、「喉の
下がり具合、うしろの使い具合、ポジション
の高さ、あるいは息を鼻のどこを通すか」
等々で、

最後の鼻など、ほんのちょっとの違いという
のも、"距離的"表現すれば、何ほどの違い
があるというのでしょうか、恐らく何センチ
もないことではないかと---。

確かにちょっと使用する部位がずれるだけ
で、結果は天と地ほど異なるけれども、発声
使用部位
からすれば、あくまでほんのちょっ
とのずれなんだから、まずは各ジャンルの違
いを強調するよりも、共通点を意識した視点
から始めるのも有りじゃないかと思うわけで
す。

またそれはこんなことにもつながります。

これも以前の文章で書きましたが、たとえば
ポップスをやっているんだとして、想像して
みてください、離島かどこかに呼ばれて、そ
こに唯一ある大き
ホールで公演することを
予定していたが、
当日、機材の不具合で、マ
イク
が使えないことが分かった。

離島なので替え
のマイクもすぐには手に入ら
ないというよう
な場合に、どうするのかと
なった時に、もちろ
んマイクが使えないの
で歌わないという選択
肢もあるでしょうが、

お客さんも集まっているのに「そういう次第
で、これで失礼します」で来たばかりで飛行
機に乗って帰るのでは淋しいと思えば、やは
り、マイクなしで歌うということになるで
しょうし、

そうなった場合に問題となるのは、ポップス
発声だから、とか、オペラ発声になっている
かどうか、などという以前に、もっと原始的
表現すれば、

まずは「ホールの後ろまで、小さな低い声
さえも届く発声になっているか―高い大き
な声は、"綺麗に"出せてるかどうかは別とし
て、聞こえるには決まっているので」という
ことにつきます。

取りあえずジャンルの違いを持ち込むことは
最後の最後でいいでしょう、と思っているの
でこういう捉え方です。

すると私にとっては、現時点では、歌とは
取りあえず、

その目安譜面に表わされているものを、
ホールの後ろまで、低い小さな部分も声とし
て届けられるように表現したもの、という定
義になります。

何故こんなみんなにつつかれそうな定義が必
要かというと、それは歌の分野ではありがち
な、最初から、歌う前からすでに、母国語の
違いなどを理由に「日本語では表現できな
い」等という決めつけ、それは表現自体の可
能性を否定することにもつながいかねない、
を予め封じるために必要だと思われます。

あるいはこうも言えるでしょう。ピアニスト
に伴奏のお願いをしたとき、譜面をもって
行った時に、譜面に表わされている限り、ピ
アニスト(男性)が、「すいません、これ、女
性アイドルの歌でしょ、ぼくには弾けませ
ん、とか、これはドイツ物なので弾けません
とか、ポップスなので弾けません---」との言
い訳を聞いたことがないわけです。

それはそうでしょう、譜面にはこう弾けと目
安が示されていて
、それを素直に実行しただ
けでも、それなりの雰囲気が出せるように
曲家は作っているはず
です。与えられた指
示を技術的に淡々と処理するだけでも---。

翻って歌の場合は、どうでしょう。逆にこう
いう理由をつけて、自分の歌う範囲を限定し
てしまえば、

「私は、女性アイドルの歌、日本語の歌、そ
の他のあれもこれも除いた、残りの歌しか
いません」的な、予め多くのジャンルを除い
た、きわめて限定つきの歌手しか誕生しない
でしょう。

わざわざ、そこから自分が何かを学べる範囲
を狭めることはないでしょう。

たとえば私は主にポップスを歌っているわけ
ですが、ピアニストの所へ稽古をつけてもら
いにいったときに、そこはマイクを使う環境
には決してなっていません。練習でマイクを
使うことはないのです。

まあ、もちろん本番でマイクを使うのなら、
それはそれでマイクの使い方というのも別に
勉強しなければなりませんが、まずは生の声
を鍛える以外にはないと。

ピアニストの言によれば、「マイクを使って
練習しちゃうと小さな声がいつまでたっても
ダメだから
」となります。

これは"他分野"からの非常に貴重なご意見で、
ピアニストは決して、マイクで小さな音でも
拾えるから、お客さんに聴こえてさえいれ
ば、それでいいやとは考えていないわけで
す。

実際元の声が弱々しければ、マイクを通して
聴こえるにせよ、それはただ聴こえただけ
力強さがないから、でしょう。

また、伴奏も、その面を鍛えるためもあって
か、出だしから、ものすごく素晴らしい弱音
で弾かれます(まあ、といっても譜面の指示通
りなんですけど、弱い音とはこういうレベル
か、と分らせるためであるかのように---)。

そこへ追い込まれて初めて、大きな声でさえ
歌っていればいいなという甘い考えは吹き飛
びます。

というのも、ピアニストはどれほど腕があっ
ても、"伴奏という立場"なので、歌い手が小
さい声が出せなければ、その歌を無視して、
自分だけが「俺はここまで表現できるぜ」的
なことはできないからです。

これも、ピアノは楽器で、歌とは関係ないと
の立場、すなわち違いを強調する立場に立っ
てしまえば、小さい声を出す貴重な勉強の機
会をみずから捨ててしまうことになります。

というわけで、出だしはピアニストの弱音に
拮抗する弱音を声で出すことが課題なわけ
で、逆にそうなれれば、ピアニストに伴奏を
申し込んだ時に、断られることはなくなるだ
ろうと踏んでいます。

結局、私の場合で言えば、日本語の歌を主に
表現するのに、それがオペラ発声かどうかは
一義的に重要ではなく、先ほどの自分の定義
に基づけば、必重要なのは、煎じ煮詰めて
まえば、まずは、

「お前は、日本語の歌詞で譜面上に表現され
ている歌を、ホールの後ろまでその小さく低
い音から響かせて、一般の人に日本語の歌ら
しく聞こえるように表現できるか
」というこ
とに尽きると思うからです。

ピアニストの話もそういう方向性を示唆して
いるように思われます。

だから、小さい声を後ろまで、日本語で、と
いうことができないとおかしいと思っている
から言っているわけです。決してジャンルの
問題ではないと---。

そういう大きな場で歌う経験がないのなら、
それはそういう経験を盛り込みながら、それ
も無理ならマイクを使
わずに練習して、発声
を練って行けば、いずれは解決されると思っ
ているわけですが、実際こう書きなおしてみ
ただけで、すでに低音・弱音の決定的な重要
性が浮かび上がってきます。

少なくとも、高音の練習ばかりしていて、
れで
低音、弱音が自動的にホールの後ろまで
飛んでいくようになるはずはありません。

しかも、この低音というのも、それほどの低
音でなくとも、スタンダード曲に出てくる程
度の相対的に低い音さえ、すでに歌で指導的
立場にいるらしい人の歌を聞きに入っても、
聞こえてこないことがままあります。

何か体の動きを見ていると、すごく表現しよ
うとしているのは最後方の席で見ていても分
るのですが、やはり肝心の声が聞こえてこな
いことには---。これは表現のニュアンスの問
題ではなく、ただ聴こえてこないわけなの
で、素人でも断言できるわけです。

つまり、ひどい言い方をすれば、下は聞こえ
ず、上は叫んでいる状態で、その段階でいく
歌唱練習しても、下の音が聞こえ、上の音
がすっきり出せるようには決してならないと
いうわけです。

だから、多くのオペラ歌手が歌唱練習は禁じ
られていたというわけでしょう、発声がもの
になるまでが---。

そして素人にも、その指導者の歌の、実際に
は中音域の音さえ聞こえてこないことを考え
ると、いかに中音域の充実が難しいか、

それもその難しさというのは、何も技術的な
ことではなく、まさに歌い手自身が自分は中
音域はもうできている
ーだって歌っていて難
しさを感じないからーと思い違いをしている
からということに尽きる、人間、自分で失敗
していると自覚できていないことを真剣に
正したりはできません。

逆に高音域なら失敗が自覚できるため、体を
壊してでも練習しようとする人が、後を絶た
ないわけです。

まあ、もちろん指導者レベルはそれ―生徒さ
んの中音域からしてすでに弱い発声であ
るーことは知っているから、何とか工夫して
まずは大きい声にしようというわけで、いろ
いろ発声練習をさせるわけでしょうが、

それ自体も、人体の特殊な部位、特に前側
発声器官の調節、それだけで操ろうとして
も、自然な歌唱にいきつくとは思えません。

大きい声もそうですが、もちろん小さい声も
あるいは低音も、他のこととまったく同じよ
うに、練習してもいないのに、自然に大きく
なったり、小さくなったり、低音が出せたり
たりするようになることは決してないでしょ
う。

だから、ジャンルの違いではなく、ある種の
オペラ歌手が、日本語の歌を歌うのを避ける
のは、出だし比較的低音域のを表現できな
いからだろうと睨んでいますが、

一般の聴き手が不自然さを感じるのもそこで
しょうし、ーつまり場違いな大きい声を出し
ているというーでも敢えて、そこに挑戦した
方が、ピアノに拮抗する弱音に挑戦した方
が、歌が進歩するのは間違いないことでしょ
う。

それを練習もしなければ、できるようになる
ことは決してありません。

どこまで声を絞り込むかしかないわけで、限
度もありません。

また絞り込むためにも体の後ろ側を使わずし
、その歌歌にフィットした弱音を出せるは
ずはありません。

それとも、歌唱が変だと言われたら、「あい
つら=素人には音楽は理解できていない」と
いうことで、切り抜けるつもりなのでしょう
か?

これは、弱低音を目指すことは、当然非常に
難しいことではありますが、それを目指すし
か、伴奏者といっしょに演奏を高めていくつ
もりなら、残された道はそれしかないでしょ
う。

また、低音でまともに強くかつ小さな音が出
せるくらいになれば、それだけで高音のがな
り率
も当然目に見えて低下してくるので、求
められている歌唱に近づくでしょう。





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