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アジズ・クリストフ(アナディ)

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この記事は2019.4.24、19:50に更新しました。

スピリチュアル教師としてのアジズ・クリストフについて

アジズ・クリストフ(現在はアナディと自称しているようである。以下、アナディとする)は、観照者の目覚めにおいて特化した教師であるというのが、私の印象です。

わかる人には、わかるだろうが、彼は覚者ではなく、インテリ上級瞑想者でしかないからね。

つまり「彼は、まだ何かを探してしている」わけだ。

「探求者」だということだね。

「知性との自己同一化が落ちていない」と言い換えてもいい。

「真なる自己の目覚めが完結していない」と言ってもいい。

所詮は、言葉による表現の違いだけだ。

はっきり言おう。

要は「彼は知性活動が大好き、いわゆるインテリ人種だが、魂の成熟度においてはどこにでもいる普通の人」だ。

別に普通の人であるということは、悪いことではない。

しかし彼を「覚者」として、その神輿(みこし)を担(かつ)ぎ上げると問題となる。

ゆえにアジズやフーマンなどといった幼稚な輩(やから)の教えは、真なる自己の目覚めについての教えは、役に立たないどころか有害ですらある。

かりに真なる自己の目覚めが生じても、そのまま彼の教えに従っていると、その目覚めが前に進まないどころか、後戻りすることになるという意味においてである。

そこにおいてはアジズ時代の昔も、アナディと名乗っている今も変わらない。

アナディの現在の教えは、過去に日本で翻訳された本の内容とは大きく異なるようである。

私は探求時代に彼の本を読んだことはあるが、彼に会ったことはない。

なのでアナディのリトリートに参加し、彼の個人セッションを受けたことのあるお客様から聞いたことをもとに話そうと思う。

現在の彼はステート・オブ・プレゼンスという言葉は使っていないようである。

アナディ本人が、過去のアジズ&フーマンの教えが不十分であったとして、アジズ名義の昔の本でなく、今の彼の本を読むように薦めているとのこと。

その辺のことは、フーマンも私も強く語ってきたことでありますので、このサイトの読者の方からすれば、そこまで不思議なことでもないでしょう。

極めて自然なことであります。

現在の彼からは、ガイダンスという言葉など、全く出てこないようである。

その辺については、探究者にとって有害なものであるとして、私がこれまでにも厳しく批判してきたことであるので、「やはり、そうであろう」「それが正気というものだ」という感じである。

なぜならガイダンスなどといった低次の次元のものは、真なる自己の目覚めとは直接的に何の関係もないものであるし、そのような方向に注意を向けさせることは有害でしかないからである。

しかし、垂直に落としていくなどという教え方は昔のままだ。

アナディ本人がプラクティス(修練)と呼んでいるだけあって、自力的過ぎる感がある。

たしかに観照者を明晰に目覚めさせるまでは、自力の奮闘というものが必要である。

しかし真なる自己の目覚めが生じてからは純粋意識という他力の次元へと明け渡さなければならない。

目指すべき意識の根源は非顕現の次元であり、どこでもない場所である。

垂直とか、そういう物理的な表現ができるものではない。

ましてや腹なども関係もない。

真なる自己の目覚めとは関係のない、条件付きでのサマーディ体験においてなら、垂直や腹も役に立たないことはないが・・・

アナディが言わんとすることはわかるんだが、垂直に落としていくなどという表現をすると、探究者は肉体/精神の次元に釘付けにされたままになってしまう。

なぜなら垂直に落ちていこうとする自分、垂直に落ちていこうとする意思、つまり消え去るべき肉体/精神と自己同一化した私というものが残り続けてしまう、それどころかむしろ強化されてしまうのだ。

つまり真なる自己の目覚めとは関係のない方向へと誘ってしまう。

そこは彼の昔の教えの時と変わらない。

真の霊性指導者、スピリチュアル・マスターの仕事とは、真なる自己の目覚めを生じせしめ、その生徒に対して、目覚めを妨げることとなる余計なことをさせないことにある。

目覚めの継続のために不自然なことをさせることではない。

なぜなら赤ん坊の成長と同じで、

真なる自己の目覚めとは、本来、目覚めそのものの力によって、自然になされていく他力的な恩寵プロセス

だからである。

アナディは観照者を明晰に目覚めさせるという意味においては、とても優れた教師だと思う。

しかし、後頭部への留意?

そのようなことをしていては、人為的なエネルギー操作になってしまうという意味においては有害でさえある

取り返しのつかない結晶化が起きる可能性が大である。

そうなると、その結晶化されたエネルギー体を解体するのがこれまた大変である。

だから、後頭部への留意はやめた方がいい。

それは自己意識の目覚めや真なる自己の目覚めとは、何の関係もない。

有害ですらある。

以下は以前に書いていた記事です。

彼がヒューマン・ブッダという視点で、悟った人の「人間としての生の部分」をありのままに語っているところは、過去の覚者があまり語ってこなかったものであるがゆえに、その勇気や誠実さに敬意を表したいと思います。

彼の人間に対する洞察も悪くない。

それゆえにステート・オブ・プレゼンス以降の肝心な「真なる自己の目覚めに関する教え」が、なんであのようなものになってしまったのかを思うと、とても残念な気持ちになる。

ま、彼自身がそういう解釈で自身の目覚めを進展させてきたのだろうから、彼の中では何の間違いもないということになるが、アジズのこの教え(過去においてはフーマンも同じ)の言葉だけを読んだ人がいざ実践するとなると、後々かなり問題が生じて来るので、あえて言葉にしておいた。

私はアジズという人間を批判する気はないが、当時の彼の教えが日本のスピリチュアル・シーンに残した悪影響というものにおいては、黙ってみていることができない状況になってきていることに気づいています。

つまり特定の政治家、その人そのものがどうということではなく、その政治家の政策によって国益として損なわれる面が多いことが明らかな場合には、警鐘を鳴らすことも必要だという次第であります。

私がここで言うアジズの教えとは、あくまでも日本で発売されている書物を通してのものであるということをご理解いただきたい。

私はアジズに会ったことがないし、彼のセッションも受けたことがない。

ですから、あくまでもアジズ名義で、過去に日本で出版された書物に書かれている彼の言葉による教えについてのものです。

その前提の上での話です。

繰り返しますが、あくまでも過去の彼の「言葉による伝達」に関することに限ってのことに対しての「私の個人的な意見」であります。

簡単に言ってしまうと、アジズが当時は敬愛していたフーマンも示唆しているように(とはいっても私はフーマンの教えについても、違う意味で否定的ではありますが。)、その教えにおいてアジズは「目覚めの準備のためのマスター」です。

一昔前にグルジェフやOSHOの行っていた準備のための様々なワークを、良くも悪くも「ステート・オブ・プレゼンスという一つのワーク」に集約した人です。

その教え(現在は知りません)においては、ステート・オブ・プレゼンスの確立から、悟りの状態まで描かれていますが、ステート・オブ・プレゼンス以降は実際的には役に立たないどころか、同じ場所をグルグル回り続けさせられることとなります。

私からすれば、ステート・オブ・プレゼンス以降の真なる自己の目覚めの過程も全て体験により理解していますから、アジズのステート・オブ・プレゼンス以降の過程の教えは、それなりに成熟した探究者にとっては有害なものとなる可能性が大きいでしょう。

そこのところもフーマンも示唆しています。

ですが、1日1時間の瞑想をしている程度では、アジズの教えが役に立たないということが経験的に理解できるところまで至ることができません。

しかし毎日5時間でもアジズの教えに従って瞑想を数年間続けていれば、誰だって気がつきます。

「なんか、おかしいな」と・・・

「どれがビーイングでどれがハートで・・・だったら私がいつも感じているこれは何なんだ?・・・」と、唯一の最も大切なものである純粋意識を捨ててしまうことになる場合があります。

現在の私がステート・オブ・プレゼンスというタイトルで記事を出しているのは、アジズの教えの海で溺れさせないための方便としてであってね。

本当は、ステート・オブ・プレゼンスという言葉は使いたくないのです。

結果的にアジズの教えを広めてしまうことになるから。

もちろん人には運もありますから、結果的にアジズの言葉による教えだけで、うまく行ったという人がいないとは言い切れませんが、それはまた別問題ですので、そのようなケースはここでは除外します。

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