津嶋部神社の参道⑤京街道・八雲~佐太(守口)に関する記事です。

京街道・守口宿の続き

京街道守口宿の北の一里塚から佐太天神宮までを歩いた記録です。

古代から近代に至るまで多くの歴史上の人物が関わった道ですが、
今回は牛頭天王(素戔嗚尊)の遷宮に着目して歩いてみました。


京街道守口マイマップ

京街道守口マイマップ

守口宿の北は国道1号線と交差する浜町交差点で、
その先に一里塚跡があります。


一里塚は、街道の側に1里(4km)毎に目印として設置した塚で、
塚の側に榎の木などを植えていました。


一里塚
一里塚


旧京街道は大阪府道155号(北大日竜田線)との出入りを繰り返し、
八雲にも分岐点があります。

八雲は京都の八坂神社に因む地名で、素盞嗚尊が詠んだ歌の八雲からの命名です。
♪八雲立つ 出雲八重垣妻籠に 八重垣作る その八重垣を♪  素盞嗚尊

平安初期に播磨国廣峯から八坂神社(祇園社)へ牛頭天王(素戔嗚尊)を遷宮した時、
神崎川を遡上し一津屋を通り、守口にも素戔嗚尊が分霊されたものと推察できます。

八雲旧街道分岐点
八雲旧街道分岐点(左が旧京街道)


旧京街道を北上すると淀川となり、八雲と大庭の境界に正迎寺があります。
正迎寺は 観応元年(1350)那須又五郎為成が創建した浄土真宗の寺です。

正迎寺
正迎寺

正迎寺の山門前を通過し、庭窪浄水場を回り込むと
正面に淀川の堤防が現れ、その右下に八坂瓊神社の叢林が見えます。

八坂瓊神社の社叢は楠木の大木でその回りを群生する榎木が囲んでいます。
遠くからも良く見え、京街道を行く旅人に目印になったものと思われます。

八坂瓊神社の社叢
八坂瓊神社の社叢

八坂瓊神社の祭神は素戔嗚尊(牛頭天王)ですが、
守口には八雲神社・守居神社など素戔嗚尊を主神とする神社が多くあります。

平安初期に播磨国廣峯から洛東の祇園社へ牛頭天王(素戔嗚尊)を遷宮した時、
神崎川を遡上し一津屋を通り、淀川を遡上しました。
この時に守口にも素戔嗚尊が分霊された可能性が高いと推察します。

鳥飼大橋
鳥飼大橋


八坂瓊神社の対岸には味府神社があり、
その鳥居横に一津屋渡し跡(宮ノ下渡し跡)があります。
一津屋渡しは一津屋と大庭を結ぶ渡しで、
戦国時代末から昭和29年の鳥飼大橋完成まで続きました。


しかし一津屋は単に対岸の守口と摂津を結ぶ役割だけでなく、
京都と西国を最短で結ぶ淀川と神崎川の中継点です。

一津屋樋門
一津屋樋門

平安遷都直前の785年に、桓武天皇が淀川と神崎川を結ぶために
鯵生野を開削したとの記録が続日本紀に残ります。


和気清麻呂が平安京と西国・瀬戸内海を直接結ぶ目的で
神崎川と淀川を繋ぐ運河を開削しました。

平安遷都で大和川を遡り大和朝廷へ向かうルートから
神崎川・淀川を遡り平安京へ向かうルートに変わりました。

平安初期にはこの和気清麻呂が開発したこのルートを使い、
播磨国廣峯から、洛東の祇園社へ牛頭天王(素戔嗚尊)を遷宮しました。

神崎川(ゴミ焼却場)
神崎川と淀川を接続する運河(和気清麻呂が開削)

開削された運河はを3km程西流し、安威川に流れ込み神崎川となります。
その運河と安威川の接続点にある高浜神社では、
祇園社遷宮の時に素戔嗚尊を分霊したとの伝承が残ります。

淀川氾濫や茨田池腐敗に起因して疫病が大流行した経験のある対岸の茨田郡でも、
淀川を通過する牛頭天王(素戔嗚尊)の分霊を願いでたのは当然のことでしょう。


一津屋水門
一津屋水門(淀川との接点)

京街道に戻り、八坂瓊神社~鳥飼大橋を越え
淀川を遡ると佐太天神宮があります。

佐太は平安時代に天皇から菅原道真に恩賞として与えられた土地です。
道真が太宰府への左遷で通過した折、ここに留って
赦免の沙汰を待ったことから佐太と呼ぶようになったとされます。

佐太から枚方宿までは2里(8km)、守口宿までは1里(4km)ほどの距離にあります。

佐太天神宮の鳥居
佐太天神宮の鳥居


京街道・寝屋川へ続く