(001)

四十キロメートル遠方に佐渡島を望む新潟の空は晴れていた。

 

日の出時刻に合わせてジョギングを開始する店町(たなまち)の日課は、ここに来ても変わらなかった。夏は五時前に起きて長い距離を走り、日が短い季節には六時過ぎにスタートして短く走る。トライアスロン部を辞めて二年経過した今も、この習慣だけは続けていた。

 

新潟地方の日の出時刻は、店町の住む大阪よりも十五分ほど早い。春分を少し過ぎたこの日、店町は五時半過ぎに宿を出て、海に向けてゆっくりと走りはじめた。朝の冷気が店町の頬に触れる。

 

少し行くと周囲に住宅はなくなり、道の両側には水が張られる前の水田風景が広がった。首の長い数羽の白い鳥が羽を休めている。店町の足音が近づくとその鳥は大きな羽を広げて低く飛び立った。

 

十分ほど走って、ようやく一つ目の信号が見えてきた。車通りが少ない時刻とあって、信号は交互に点滅している。

 

店町は海の香りを感じる方へと迷わずに進んだ。信号の先の道は、広大な砂地の畑を貫くように伸びている。舗装されていない農道がその道から左右に何本か伸びている。店町は、二本目の農道を右に入って、の部分を選んで走った。両脇の畑は、夏になるとスイカ畑とタバコの葉畑に一年ごとに切り替わる。肌寒さの残るこの季節には、まだ何もそこに植えられていなかった。

 

畑を抜けると広い海岸通りに出た。眼前に広がる松林の先は海である。辺りは既に十分明るくなっている。見渡す限り直線が続く海岸通りには、国道402号線の標識が立っていた。

 

店町は道の先に目をやった。オレンジ色のセンターラインの先に、標高四八一メートルの角田山が見えている。山はピラミッド型の姿の裾野を、一方を越後平野になだらかに広げ、もう一方を日本海へ下ろしていた。

 

店町は山を遠く眺めながら走りつづけた。車のタイヤの音が遠くから聞こえる。右手には松の防砂林が続き、その木々の間から海が見えている。松は冬の北風の厳しさを記録するように、南南西の方向に規則正しく傾いて立っていた。同じ眺めが、それでいて飽きない景色がしばらく続いた。

店町の脇をヘッドライトを点灯させたままの車が二台間隔をおいて通り過ぎた。

 

『四ツ郷屋海水浴場』という看板が見えた辺りで店町は走るのをやめて、浜の入り口へと歩いた。

 

小高くなった先になだらかに砂浜が広がっている。白い光に照らされた砂浜は、爽やかな潮風もまだ少し肌寒く、波は静かで穏やかだった。小魚の群れが遠く海面に光って見えている。テトラポットのかなた、朝靄の陰に隠れた佐渡島がうっすらと見えている。店町が想像していたよりも島は近く、それはまるで中国大陸の一部が日本に迫っているかのようである。

 

数年前であれば、その島をトライアスロンの全国大会が開催される憧れの地として眺めたであろうが、今の店町にはその思いはなかった。今はむしろ遥か昔に抱いた夢にさえ感じられた。

 

『民宿のんき』をスタートして三十分が経過していた。

 

シューズに入った砂を取り払おうと、店町は片方の靴を脱いだ。そのとき首に掛けていたタオルを落としそうになって、少しバランスを崩して足を着いた。夜の大気に冷やされた真白な砂が足裏に冷たい。店町はシューズを足元に揃えて、波打ち際へと歩いた。波に洗われて茶色く湿った砂を踏みしめながら、店町は数時間後に迫った入社式のことを思い描いた。そして今日に至るまでのいくつかの出来事を思い返した。

 


長編小説ランキング

(002)

この春まで大阪医科理科大学の附属研究施設で学生生活を送っていた店町に転機が訪れたのはある事件がきっかけだった。店町が修士号取得に向けた研究に取組んでいた六月のある日、その事件は起きた。

 

梅雨寒の雨が降りしきる中、店町が昼食を済ませて学生食堂を出たとき、研究棟のほうに非常ベルの音を聞いた。ベルの音は、建物が近づくにつれ次第に大きくなった。興味深げに研究棟に近づいていく学生たちに混じって店町は研究棟に向かって歩いた。

 

玄関前の駐車場にはところどころ水溜りができている。中にいた研究者たちは建物の外へと避難しはじめていた。白衣を脱ぎながら足早に出てくるものもいれば、面倒くさそうな面持ちでとぼとぼと歩き出てくるものもいる。皆腕をさすりながら一様に、今出てきた研究棟を振り返った。建物の外観には特に変わった様子はみられない。傘を持たずに出てきた学生たちは、降り続く雨の様子を見て玄関前の軒下に留まった。非常ベルは鳴り響いている。

 

店町は傘をさしながら玄関前の駐車場からその様子を見ていた。

 

軒下に収まりきらず、ロビーまで白衣を着た学生たちであふれはじめた。

 

「誤報だな、きっと」

 

そうつぶやく者がいた。

 

掲示板に張り出された学会の案内ポスターに目をやる学生がいる。玄関脇の灰皿のところでタバコに火を点ける者もいる。非常ベルがいつまで鳴り続くのだろうかという退屈さが皆の行動に表れはじめていた。

 

そのとき、建物の脇のほうから避難を促す声が聞こえた。

 

「建物内で放射能汚染が発生しています。棟内にいる方は直ちに屋外に避難して、建物からできるだけ離れてください!」

 

落ち着いた声ではなかった。

 

棟内のスピーカーからの声ではなく、屋外から拡声器を使っての呼びかけだったことに、そこに居合わせた者たちは猛烈な恐怖を覚えた。

 

次の瞬間、皆は一斉に走り出した。こわばった表情で夢中に走った。誰が指示したわけでもなく集団は風上にあたる芝生広場へと駆け込んだ。店町もその中にいた。

 

芝生広場の中央は、研究棟の三階とほぼ同じ高さにあり、正面玄関を見下ろせる位置にある。

 

無意識のうちに息を止めていたのか、店町は足を止めると肩で大きく息をした。広場で立ち止まらずにさらに遠くへ避難する者がいる。店町は広場の中央から少し様子を伺うことにした。途中まで進めた実験のことがたいそう気になっていたのである。

 

店町は辺りを見まわした。店町以外に傘をさしている者はいない。口元をハンカチで押さえて建物のほうを見ている者が何名かいた。

 

やがて、けたたましいサイレンの音とともに化学防護車が到着して建物を取り囲んだ。光沢のない黒い車両から降りてくる隊員たちの姿は、事件の重々しさを感じさせた。目の前の光景は、三年前に発生した地下鉄サリン事件を思い起させた。地下鉄サリン事件以降も毒劇物を使った犯罪が多発していた日本は、目に見えない恐怖物質に敏感に、そして過剰に反応する環境となっていた。

 

特殊部隊と見られる隊員達の手によって、黄色いビニールロープが張られ、研究棟は直ちに封鎖された。テレビ映像で見覚えのあるような光景が店町の目の前で展開されていた。いち早く情報を聞きつけた記者の姿がある。その男は事件現場に近づきたい好奇心と我が身を守りたいという本能的不安感との間で戸惑っているようである。捜査員は建物にあわただしく出入りした。半ば連れ出される様子で出てくる研究者がまだ建物の中にいた。

 

店町はしばらく芝生広場にいた。そこは事件現場から比較的近い場所であったが、目に映る光景を眺める以外に事件の詳細を知るすべはなかった。避難を促す最初の声を聞いた後は、どこからも何の案内も、何の説明もなかったのである。そこにいる誰もが同じ状況だった。研究室に戻れない限り途中まで進めた実験のことはあきらめるしかなかった。

 

雨足が次第に強くなってきた。店町はその場所を離れて大学の敷地を出ることにした。正門の前には報道陣が詰め掛けていた。報道車両を横付けして、衛星アンテナを立てている。その前にビニール傘をさしたレポーターがマイクを手に準備をしていた。店町はその様子もしばらく見ていたが、事件の中味はやはり何もわからなかった。店町は大学本部の建物に向かった。事件の情報がそこなら何か入手できるかも知れないと考えたからである。

 

ちょうどそのころテレビの字幕スーパーで事件発生の第一報が報じられていた。放射性物質が何者かによって研究棟内で散布された可能性がある、というものだった。

 

大学本部の中は混乱していた。事務所内にいる何名かが受話器を手に何やら早口で話している。残りの電話も鳴り続けていた。

 


長編小説ランキング

(003)

店町がアパートに戻ってみると留守電に母からのメッセージが入っていた。卒業できるのか、とか、まさか事件に関わってないでしょうね、といったいつもと変わらない少し過剰な反応だった。店町は、母からのメッセージに腹立たしさを覚えた。親が敷いたレールの上をこれまで何の疑問もなく走り続けてきた店町は、この歳になって親に対する反発心が相当大きなものになっていた。実家のある京都から大学まで通えない距離ではなかったが、店町は学部三年生のときに親元を離れて、大学近くのアパートでひとり暮らしをするようになった。研究室に所属してからは、帰宅が遅くなることも多かったので、実家を出る理由には困らなかった。半ば親元を逃げ出すようにして実家を出たのであったが、店町の母は、息子のそういう心内を知る由もなかった。学業のために仕方なく家を出て行った、と単純に思い込んでいた。

 

夜のニュースで事件は大々的に報じられた。けれども、店町が知りたいと思っていた事件の詳細は依然として明らかにされなかった。事件拡大の恐れを意識しての報道規制なのか、それとも捜査が難航してのことなのか、店町は施設関係者のひとりとして、事件の行く末が気になっていた。

 

散布された物質が何であるのか、撒かれた量、汚染度合がどの程度であるのかといった様々な情報が錯綜する中、次の朝を迎えた。数日間降り続いた雨はあがっていた。店町は、三日ぶりに朝のジョギングに出かけた。いつもと違うコースを通って、芝生広場の中央へと向かった。

 

研究棟の脇に警察関係車両が二台止まっていた。化学防護車は既に見当たらない。建物の入り口には黄色いビニールロープが張られていて、その前に警官二人が立っていた。研究棟内への立入りが制限された状態が続いていた。その二人以外に人影はなかった。

 

正門前の報道車両の数は増えていた。人の姿はほとんど見当たらない。皆車の中で仮眠をとっているようである。

事件発生時の物々しさは、そこにはなかった。むしろ雨上がりのとても静かな朝だった。

 

店町がアパートに戻ってシャワーを浴びていると、電話のベルが鳴った。こんな非常識な時刻に電話を掛けてくるのは母に違いないと思った店町は、バスタオルで身体を拭きながら無愛想に電話口に出た。

 

受話器から聞こえたのは低く太い男の声だった。

「大阪府警捜査一課の深見と言います。店町真治さんですね」

 

店町が「はい」と答えると、相手の語調はいきなり強くなった。

 

「こんな大変な時に連絡が取れないのでは困まります。こんな朝早くに何をしていたのですか!」

 

予期せぬ相手からの電話であったため、店町は少し冷静さを失い、受話器を手にしきりに頭を下げた。

 

電話機を見ると留守録ランプが点滅していた。どうやら店町がランニングに出かけている間にも連絡が入っていたようである。

 

結局のところ用件は、施設関係者に対する個別ヒアリングを行うから指定された時刻に学部事務室に来い、というものであった。

 

店町は受話器を置いて壁の時計を見た。午前六時三十分を少しまわったところだった。留守録確認ボタンを押すと、二件続けて無言の録音が残っていた。

 

録音時刻を知らせる電子音を聞きながら、店町はしきりに頭を下げた先ほどの反射的な行動を不本意に感じた。

 

店町は指定された時刻に学部事務室へと出向いた。学部事務室は、研究棟に隣接する建物の中にある。窓の外は、また雨が降りだしていた。応接室の中には捜査官が二人座っていた。ひとりは記録係として、もうひとりは質問係として表情ひとつ変えない厳しい顔つきをしている。

 

「今回の事件、あなたは何か知っていますか?」

店町に対するヒアリングがはじまった。

 

「いえ、何も知りません。ニュースで報道された内容だけです。いったいどういう事件なのでしょうか?」

 

店町が逆に質問を交えて答えると、捜査官はあからさまに嫌な顔をした。捜査官は、店町の質問には答えずに質問を続けた。イエスかノーで答えるようなものからはじまった質問は、次第に店町が取り組む研究の中身にまで及んだ。質問をする捜査官は生命科学分野の研究について驚くほど詳しかった。

 

店町はこの席で、散布された物質が『ヨウ素一二五』と、『リン三二』という放射性同位元素であるということを知った。店町も実験で時々使用する物質である。油断はできないものの、想像していた最悪の物質ではなかったことに店町は胸をなでおろした。

 

「事件発生時には、建物の中にいたんですよねぇ。でも、非常ベルが鳴ったときには建物の外にいたんですよねぇ」

「この放射性物質がどこに保管されていたかも知っていますよね、もちろん」

 

店町の反応を伺うような質問が続いた。こうなると参考までの個別ヒアリングとは名ばかりのもので、容疑者に対する事情聴取さながらである。店町は自分に不利益が及ばぬように言葉を選んで質問に答えた。

 


長編小説ランキング

(004)

付属病院で必ず検査を受けるようにと指示を受けたのは、ひと通りの質問が終わってからだった。学生証を示せば無料で検査を受けることができる、とのことであったが、本来優先されるべき医療行為が捜査優先の影で計画的に後まわしにされたことに店町は微妙な違和感を覚えた。放射性物質が撒かれた現場を、それと気付かずに事件発生直後に歩いていたことを店町は少なからず不安に感じていたのである。被爆しているかも知れないという思いが、その違和感をよりいっそう大きなものにした。

 

最後に「何か質問は」と聞かれて店町は、「研究室にはいつ戻れるのでしょうか」と聞いた。すると予想した通り「なんとも言えませんね」とだけ捜査官は答え、口元に少し笑みを浮かべた。

 

学部事務室を出ると、店町の同期の学生たちが集まって話をしていた。

「おお、店町。実験大丈夫か」

 

店町の姿に気付いたひとりが呼び止めた。

 

「駄目だね。一ヶ月以上かけて準備してきたものが台無しだ」

「もしかして、あの最後の実験か」

「その通り」

 

店町は、声のトーンを少し落とした。

 

店町がどれだけ重要な実験をしようとしていたかを一部の人間は知っていた。声をかけてきた学生もそのひとりだった。店町は学部時代に書いた論文で、生理学系の学会の特別賞を受賞している。ファーストネームこそ担当教官名であったが、実際に研究計画を立てて実験を行ったのは店町だった。そのことを知る周囲の人間は、アカデミアに約束された店町の将来に期待を掛けていた。

 

日ごろ微生物や病原菌を用いて研究を行っていた店町は、培養する細菌の世話のために土日も研究室に顔を出すことが多かった。その中で発生した今回の事件である。細菌研究所の建物は、数年前に補修されて外観こそきれいであったが、建物内部の設備は古く、年に数回、不定期に停電が発生していた。そのたびに研究者たちは中庭に置かれた大型の発電機をまわして実験機器の運転維持に努めていた。

 

研究棟が封鎖されている間にも、運が悪いことに数時間の停電が発生していた。今回の停電はむしろ意図的なものだったのではないか、という噂もあったが、真相はわからなかった。

 

事件発生から三日が経過して、一部を除く研究棟のほとんどの区画が開放された。この日を待ちかねていた店町は、正面玄関から研究棟内に入った。雨にぬれた靴底が、リノリウムの床を踏みしめる音が節電中の薄暗い廊下に響いた。事件発生現場は、青いビニールシートで囲われていた。店町は息を止めてそこを通り過ぎた。

 

実験室内の様子は、店町が事件当日に昼食に出かけたときのままであった。冷凍機のコンプレッサーの低い音が響く部屋の中で、マグネット式の攪拌器がカタカタと小さく音をたててビーカーの溶液をかき混ぜていた。

 

店町は、恐るおそる細菌培養槽の扉を開いた。

 

悪夢のようだった。停電が原因で温湿度コントロールが停止してしまい、研究に使用する細菌サンプルのすべてが使い物にならない状態になっていた。

 

店町に遅れて二人の学部学生もやってきた。店町は誰かが事件の真相を知っているのではないかと期待していたが、二人とも詳しい情報を持ってはいなかった。

 

奥の実験室に担当教官の姿があった。

 

「先生は、何か今回の事件のことをご存知で?」

 

「いや、何もわからないね。妙な形で研究所のことが有名になってしまって、困っているんだ。君たちも週刊誌の記者には気を付けたほうがいいよ」

 

担当教官はそう言い残して実験室を出ていった。

 

研究棟の周囲には、入校許可を得ずに取材活動をしているマナーの悪い二流週刊誌の記者が詰め掛けていた。白衣を着て建物に出入りする学生たちは、事件の周辺を取材する記者たちの格好の対象となり、出入りのたび同じような質問を受けた。

 

「犯人は学生だといううわさですが、心当たりは……」

 

「事件が発生したとき、どこにいましたか」

 

「今回撒かれた放射性物質を使用されたこと……」

 

事件を混乱させるような情報は誰にも話さないように、と警察から念を押されていた研究者たちは、足早にそこを通り抜けた。

 

店町もはじめのうちは足を止めて当たり障りのない内容を答えていたが、繰り返される同じ質問に苛立ちを感じて珍しく声を荒げた。

 

「今回の事件のせいで私は実験サンプルをすべて失ったんです。いい迷惑です。無駄な質問ばかりせずに、早く何とかしてください。いったい何なんですか、この事件は!」

 

研究データがそろいつつある時期だっただけに、今回の中断は店町にとって深刻だった。大幅な実験計画の組みなおしを余儀なくされただけでなく、一年以上かけて準備してきた内容のすべてが無駄になる恐れすらあった。

 

その後も店町は、毎日事件現場の前を通って研究室に足を運び、研究の遅れを取り戻そうと試みた。しかし時間的焦りのせいからか、店町の実験は思うようには進まなかった。

 


長編小説ランキング

(005)

犯人に対する呼びかけの張り紙が建物内に見られるようになったのは、研究棟が開放されて五日目のことだった。七月になっていた。

 

張り紙の文面は、『放射性同位元素を持ち出した者へ!』ではじまり、『事故は誰かが故意にしたことで許しがたい……一般市民にこれ以上迷惑をかけず、あなたの罪をこれ以上大きくしないために……』と続いていた。太字のゴシック体でA4用紙に書かれたこの言葉は、放射能汚染の拡大の恐れがいまだ残っていることと、犯人が部内関係者であるということを告げていた。研究棟内の薬品の匂いと混ざって、薄暗い廊下の異様さをさらに増していた。日ごろから無口な研究者たちは、今までに増して言葉数が少なくなり、黙々と自分の研究に没頭するようになっていた。

 

「あの張り紙、女子トイレの中にも貼ってあるのよ」

 

中庭を歩く女性の声が店町の耳に入った。

 

女性は白衣を着ていて、その横にいる男性はスーツ姿である。

 

店町は二人が座る隣のベンチに腰を下ろし、研究雑誌を読む振りをしてその会話に耳を傾けた。

 

「放射性物質って持ち出せる人が限られてるでしょ。警察もそろそろ犯人の予測がついてるんじゃないの」

 

「まぁ、おそらくついているだろうね」

 

「じゃ、早く逮捕すればいいのに」

 

「それがそう簡単にはいかないみたいなんだよね。関係者の証言と合わせて状況証拠が固まらないと。それに、周りの研究者たちも捜査には非協力的だしね。犯人に思い当たる人物がいたとしても、捜査に協力すると自分の研究時間が奪われて何のメリットもないから。警察も少し困っているみたいなことを言ってたな」

 

「なんか、やな世界。ここにいる私が言うのもなんだけど」

 

「日本ではそこまでじゃないけど、アメリカだと、研究競争や昇進をめぐって研究者同士で結構足の引っ張り合いがあったりもするんだよ。同僚の実験サンプルをこっそり隠したり、サンプルの中にバクテリアを混入させたり。もっとひどいのには、弁当の中に放射性物質を入れたっていうのもあるみたいだしね」

 

「日本でも、大学の研究室でポットのお湯にアジ化ナトリウムを混入させるっていう事件があったでしょ。似たようなものじゃない」

 

「いゃ、日本じゃまだまだ。向こうの細胞培養用装置の扉にはみんな鍵が掛かっているからね」

 

店町が中庭で耳にしたその話のように、トイレの扉や個室の中にも、目の高さに張り紙が貼られていた。建物内のすべての場所が落ち着ける場所ではなくなっていた。

 

セキュリティーが比較的厳重な放射性物質の保管場所に出入りができる人間は確かに限られている。犯人が店町の知る人物である可能性も高い。

 

たとえ犯人が特定されたとしても店町の研究が補償されるわけではなかったが、周りで噂される内容に店町は敏感になっていた。

 

研究者たちは事件に対して無関心を装い、捜査には非協力的だった。優秀な人間が集まる機関であるからこそ捜査が難航するという現象を店町は目にした。

 


長編小説ランキング