転落人生が生んだ鬼才「ポール・ゴーガン(ゴーギャン)」

印象派

こんばんは!ビー玉です。

今宵は、【大人の美術館】へようこそ・・・

本館、【大人の美術館】は、素人の素人による素人のための妄想美術館です。いわゆる “常識” とされている見解と違う箇所もあるかとは思いますが、ゆる~い気持ちでリラックスしながらご観覧ください。「知ると絵画は色っぽい」をコンセプトに、今宵も大人の美術館は開館します・・・

本日は、先週ゴッホのことを書いたんですが・・・

本日は19世紀の後期印象派の画家として活躍し、原始の色と表現を追い求めた画家ポール・ゴーガン(ゴーギャン)の人生にナビゲートします。

少し前までゴーギャンという表記がされていましたが、フランス語の発音がゴーガンに近く、最近ではできるだけ母国語の発音に近いゴーガンが主流になりつつあります。

当ブログでもゴーガンと表記することにしました。

お時間よろしければ、最後までお付き合いください!!

 

エリートブローカーから売れない画家へ

ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーガン( Eugène Henri Paul Gauguin )

1848年、ジャーナリストだった父のもとに生まれますが、生まれて間も無く父を亡くしたゴーガンは南米ペルーの叔父の元に身を寄せます。ペルーでは有力者だった叔父の庇護のもと、7歳まで何不自由なく過ごします。

そんな幼少期の記憶がゴーガンの頭の中に南国=楽園という図式を刻み込んだのかもしれません。

その後ゴーガンはパリに戻り、10代で海軍に入隊し世界中を船で就航したのち除隊。

20代で株式の仲買人となり大成功を収め、エリート街道まっしぐらの最中に結婚し、4男1女にも恵まれ、ゴーガンの人生は順風満帆でした!!

1880年作 「ゴーガンの家の広間(カルセル街の画家の室内)」

奥でピアノを弾くのはゴーガンの妻メット。

テーブルの上に飾られた豪華な花が生活の豊さを物語っています。

趣味で描いていた絵も早々にサロンに入賞するなど、順調すぎるゴーガンを襲ったのは1884年のパリ大恐慌でした。

バブルが弾けたあとの株式市場がどうなったかは、日本のバブル崩壊を知っている人には明白でしょう・・株は大暴落し、職を失ったゴーガンは仕方なく画家に専念することを決意します。

 

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人生の転機

 

ビー玉
ビー玉

あなたの夫が何の相談もなく画家になると言い出したらどうします?

あなたなら応援できますか?

 

館長
館長

ここで夫の背中を押せる妻はギャンブラー以外の何者でもないでしょうw

(※ちなみに私ビー玉は過去に大博打を打ったことがあるギャンブラーです)

 

まぁ、普通だったら反対するか三行半を突きつけますね・・・堅実なデンマーク人の妻メットは夫を残して実家へ帰ってしまいます。

 

妻に去られたゴーガンの人生は、ここからひたすら下り坂です(;´д`)トホホ…

頼みの絵もまったく売れません!!

パリで孤独な極貧生活を送っていたゴーガンに美味しい話が舞い込みます・・・・

ゴッホとの生活とその真相!!

ゴーガンといえば、ゴッホの呼びかけに唯一答えた友情熱い画家というイメージを持っていました。

実は、アルルでのゴッホとの共同生活には裏話があります。

1888年 「自画像(レ・ミゼラブル)」

小説「レ・ミゼラブル」の極貧の末に盗みをはたらいてしまう主人公ジャン・バルジャンに自分を見立てて描いた自虐的自画像です。

なぜか日本の画家は自画像を交換し合うと勘違いしたゴッホにせがまれて描いた自画像です。

ゴッホとゴーガンが知り合ったきっかけは、画商であったゴッホの弟であるテオでした。テオが兄にゴーガンを紹介したんです。

テオは極貧生活を送っていたゴーガンにある話を持ちかけます。

 

テオ
テオ

兄とアルルで共同生活してくれたら、生活を援助し、あなたの絵を買い取りましょう・・

 

兄思いのテオが兄ゴッホに同情しての提案だったの思うのですが・・・

2人の個性的な画家が生活を共にして上手くいくはずもなく、「耳切事件」というゴッホがゴーガンへの当てつけに自分の耳を切り取るという衝撃事件を起こし、たった2ヶ月で幕を閉じます。

ゴーガンとの別れがゴッホの精神を崩壊させ、死期を早める結果になってしまったのは皮肉としか言いようがありません(ノД`)シクシク

テオ・・・過保護はアカン・・(ノД`)シクシク

まぁ、そんな感じで打算的に思えるゴーガンですが、耳切事件の後もゴッホとは手紙をやりとりするなど、ゴッホが死ぬまで交友は続いたようです。なのでゴーガンも少なからずゴッホに友情は感じていたと思います。

1901年「ひまわり」

ゴーガンはのちにタヒチに赴きます。そこでヨーロッパからひまわりの種を取り寄せて育てているんですよねぇ・・・

ゴーガンの絵には、ゴッホが憧れていた「ひまわり」が度々登場します。

代表作の1889年作「かぐわしき大地」にもひまわりが描かれています。

ゴッホへの思いがひまわりを描かせていたと思いたいっ!!

「かぐわしき大地」は日本で観られます!!岡山県の「大原美術館」にて常設展示されています。

 

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南国タヒチへ

ゴッホとの共同生活に失敗したゴーガンは、憧れ続けていた南国タヒチへと舵を切ります。

タヒチではテハマナという少女と出会い同棲を始めます。

その時のテハマナの年齢は13歳。ゴーガン43歳。

ビー玉
ビー玉

・・・・。

ちょっと、気持ち悪いと思ってしまう私ではありますが・・・・

 

1891年「イア・オラナ・マリア

テハマナとの出会いはゴーガンにインスピレーションを与え、南国画家としての個性を確立させていきます。

ただ・・・このころのタヒチはフランスの植民地になっており、ゴーガンの思い描く楽園ではありませんでした。ゴーガンの描くタヒチはゴーガンのフィクションです。

夢の楽園とはほど遠く・・極貧生活や病に苦しみながら絵を描き、66点の油絵を携えて個展を開くためにパリに戻るも絵は売れず・・・テハマナはゴーガンのもとを去ります。

再びタヒチへ戻ったゴーガンは、今度は14歳の幼妻ヴァエホと生活を共にし、子ともを授かるも死産。

愛する長女にも先立たれ、死を意識するほどの絶望の中で書かれたのが・・

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか

 

ゴーガンの最高傑作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか(1889年)」です(PCの場合、画像をクリックすると拡大します)。

右から人が生まれて死ぬまでが描かれています。

西洋は左から右に時間軸が流れますので、その反対というのが興味深いですね。

中央で果実を持つ女性がいますが、彼女は人類最初の女性であるイブとも言われています。そうなると、人類の歴史が書かれているようにも読めます。

左上には再生を司る月の女神ヒナ像が描かれています。人が生まれて死に、そして再生する・・・輪廻転生(りんねてんせい)を表現しているのかもしれません。

観れば観るほどいろんな想像ができる謎多き絵です。

熱海の捜査官

余談ではありますが、私がこの絵を知ったのは「熱海の捜査官」という深夜ドラマでした。

ドラマ全編が伏線という謎多きドラマで、和製「ツインピークス」と言われた一部のマニアの間では伝説となっているドラマです。

私の中ではドラマ史に残る名作なんですが・・・このドラマで「我々は〜」の絵が謎解きのキモとして効果的に使われていて、印象的でした。

ちなみに「熱海の捜査官」は動画配信サービスHuluで配信されていますので、興味のある方は無料体験を利用してご覧になってください。

 

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晩年のゴーガン

名作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

を描き終えたゴーガンはヒ素を飲んで自殺をはかりますが、大量に飲みすぎたヒ素を吐き出して失敗。

1902年、子どもを産むために里帰りしたヴァエホはそのまま帰って来ず、1903年5月8日の朝、すでに冷たくなったゴーガンが発見されます。死因は心臓発作だと言われています。

死後、ゴーガンの絵は安値で売却され、手紙や書記は処分されてしまったために、晩年のゴーガンに関する資料は失われてしまいました。

エリートだった彼の人生は晩年にかけて散々なものになってしまいましたが、そのおかげで後世に残る名作が生まれたというのは皮肉なものですね・・・

あの世ではゴッホと仲良く過ごしているでしょうか・・・

 

本日は以上です。最後までお読みいただき、ありがとうございます。

当館は毎週土曜の深夜に開館します。

また来週お会いいたしましょう(*ˊᵕˋ*)੭

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