人生に飽きたから本気出す

人生に飽きた内向的な男が幸せになる方法を真剣に考えるブログ

一度きりの人生をなぜ自分のために使わないのか【書評:生の短さについて】

仕事をしているとめちゃくちゃつまらんなーとか、なんで自分はこれをやっているんだろうとか思ったことはないだろうか。

 

自分の行動に意味を考え始めると、途端にこのままでよいのかと不安に駆られる。

しかし、明日は幾度となくやってくるのであり、勤め人であれば、ただただ自分の仕事をこなさなければいけない。

 

そして、いつか来る定年退職後に思いを馳せ、あれやりたい、これやりたいと考えるが、そうなったときには時すでに遅し。体力は衰え、冒険もできない。

 

そんなことを考えながら、紀元後50年頃に書かれたセネカの「生の短さについて」を読んでみたら、人生飽きたとか言ってる場合じゃねぇってなったので、抜粋して紹介したい。

f:id:jinsei-akita:20180912223201j:plain

 

 

 

著者セネカについて

「生の短さについて」を著したセネカについては、以下のとおりである。

セネカ(Lucius Annaeus Seneca)

[前4ころ~後65]ローマストア学派哲学者スペインコルドバの生まれ。皇帝ネロに仕えたが、のちに謀反の疑いを受け、命令によって自殺した。

出典:セネカとは - コトバンク

 

セネカが『生の短さについて』を書いたのは後48年から55年にかけてのことなので、52歳から59歳頃に書いたことになる。ネロ帝治世にブレーンとして仕えた時のことである。その後、後62年に政界を退き、文筆業に力を入れ、後65年に長年仕えたネロ帝の命令で自殺する。(参照:ルキウス・アンナエウス・セネカ - Wikipedia

 

当時の古代ローマの誕生した時点での平均余命は25歳程度、5歳まで生きた際のの平均余命は40歳程度ということを考えると、70歳近く生きたセネカは長生きである。しかも、死因は自殺。(参照:ローマ帝国の人口学 - Wikipedia

 

哲学について蘊蓄を傾けるだけの学がないため、ストア学派がどうのこうの、セネカの生き様がどうのこうの言うつもりは毛頭ないし、言えない。

 

生の短さについて

『生の短さについて』は、セネカの義父ともされる食管長ポンペイウス・パウリーヌスに宛てられたものである。

なお、引用は『生の短さについて 他2篇(岩波文庫)』(大西英文訳)から行っている。

 

冒頭でセネカは次のように書いている。

パウリーヌス、死すべき身ながら、大方の人間は自然の悪意をかこち、われわれ人間は束の間の生に生まれつく、われわれに与えられたその束の間の時さえ、あまりにも早く、あまりにも忽然と過ぎ去り、少数の例外を除けば、他の人間は、これから生きようという、まさにその生への準備の段階で生に見捨てられてしまうと言って嘆く。

p11

定年退職後に第2の人生を始めようという矢先、ガンなどが発覚してガーン…

死ぬまでに一度は世界一周に行きたいと思っても、老後の世界一周は体にガタがきていることだろうし、行きたいところにも行けないんだろうなぁ。

 

人生は浪費をすれば短いが、立派に使えば十分長い!

われわれにはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費するのである。人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。

p12

年齢を重ねるごとに、若い人たちが活躍していくのを見て、自分とは全く時間の使い方が違ったんだろうなぁと思うばかりである。時間は平等に流れていくはずだが、人によって人生が大きく異なるのはこれいかに。

 

何歳まで生きようと、生き方を変えなきゃ生は短い

君たちの生は、たとえそれが千年以上続くとしても、必ずやきわめてわずかな期間に短縮されるに違いない。(中略)君たちはそれをつかまえようとも、引きとめようともせず、「時」という、万物の中で最も足早に過ぎ去るものの歩みを遅らせようともせずに、あたかも余分にあるもの、再び手に入れることのできるものであるかのように、いたずらに過ぎ行くのを許しているからである。

p24

日々の仕事に忙殺されて、楽しみは老後に取っておこうとする人には、確かに寿命が何歳になろうが本当の意味での生きた期間はわずかだろう。

 

お金と違って時間は勝手に流れてくる

時間の価値を知るものは一人もいない。まるでただのものであるかのように、湯水のごとく時間を使う

p30

 都会の満員電車ほど時間の浪費はないと思う。往復2時間×240日×40年も使うことを考えると、まさに湯水のごとく時間を使っているようだ。

 

社会人になれば仕事を言い訳にプライベートの先延ばしが多い

生の犠牲の上に生を築こうとするのだ。人は、これを、次にはあれを、と考えをめぐらせ、遠い将来のことにまで思いを馳せる。ところが、この先延ばしこそ生の最大の浪費なのである。(中略)生きることにとっての最大の障害は、明日というときに依存し、今日という時を無にする期待である。

p32

夏休みが終わったかと思うと年末年始休みのことを話し始めたりするが、それもある意味先延ばしなのだろうか。働いていたら確かに休みはあまり取れない。取れないけど、ずっと違和感があるのは、なんでみんなちょっとの夏休みのためにひたすら頑張れて、夏休みが終わったらリフレッシュされたーとかいってまた頑張れるんだろうか。

 

死を宣告されたときには時すでに遅し

やがて何かの病患や衰弱で自分が死すべき人間であることを思い知らされたとき、まるで、この世から出て行くのではなく、生からむりやり引き離されでもするかのように、どれほど怯えながら末期を迎えることであろう。

p37

 大体の人が突然余命宣告されたらもっとやりたいことやればよかったって思うだろう。

こんな記事があったので紹介。

tabi-labo.com

災害でも病気でも交通事故でも、自分がいつ死ぬかなんてわからないわけだ。毎日を後悔しないように生きたいものである。

スティーブジョブズのあのセリフが思い出される。

もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?

www.youtube.com

 

自分のために人生を使え

何かに忙殺される者たちの置かれた状況は皆、惨めなものであるが、とりわけ惨めなのは、自分のものでは決してない、他人の営々とした役務のためにあくせくさせられる者、他人の眠りに合わせて眠り、他人の歩みに合わせて歩きまわり、愛憎という何よりも自由なはずの情動でさえ他人の言いなりにする者である。

p62

 耳が痛い言葉である。他人の意見とか、世の中の風潮とかに、本来自由に思っていい自分の好き嫌いの感情が左右されるのは、忙殺される人よりもさらに惨めって2000年も前から言われているなんて…。確かに、自分の生は生きてないわな。

 

では、結局セネカはどう生きよと言っているかについては、実際に読んで確認していただきたい。

 

 

まとめ

・人生は浪費しなければ、長い。

・人生を先延ばしにし続けてたら生は短い。

・自分のために人生を使え。

 

 

※記事が面白かった場合はクリックをお願いします。自信につながり、より良い記事を提供するための動機になります。

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ
にほんブログ村


人気ブログランキング