『米百俵の逸話』

「北越戊辰戦争に敗れ、焦土と化した長岡のまちに、支藩である三根山藩(新潟県西蒲原郡巻町峰岡)から見舞いとして送られた米百俵。長岡藩大参事の小林虎三郎はこの米を藩士らに分配せず、国漢学校設立資金の一部に充てた・・・。

 この故事は昭和18年(1943)に刊行された、作家山本有三の戯曲「米百俵」によってひろく知られるようになり、小林虎三郎の精神は多くの人びとに深い感動を与えた。

【参照先】「長岡ミニ歴史館」

http://www.city.okayama.jp/museum/nagaoka-hanabi/kome.html

 

昭和から平成を経て令和へ…時代が遷り変っても、日本人は相変わらず辛抱や苦労、倹約話が大好きだ。もはや病的と言ってもよかろう。

 

冒頭にご紹介した米百俵の精神なんて、日本人にとって、まさにドストライクの美談で、いまの苦労が後々花咲くものだというストーリーに滅法弱い。

 

だが、この手の苦労先行型の美談風な逸話にありがちなのは、庶民が最初に負担を強いられるコストだけは具体的かつ定量的なのに、逆に、将来還元されるリターンとやらは非常に定性的かつフワッとしていて具体性の欠片も無いパターンだ

 

要は、庶民は単なる取られ損で、庶民に辛抱を強いた側は、何のリターンも返せない事実を隠すためにコストゼロの美辞麗句を並べて煙に巻いているに過ぎない。

 

米百俵の逸話を悪用した小泉バカ政権が、緊縮政策や地方交付税交付金の大幅削減による地方イジメで当時の日本国民に重い負担を強い、その後も、自民党→民主党→自民党と政権が変わるたびに、消費増税だの、年金支給年齢引き上げだの、医療費負担増加だの、事業仕分けだのと、常軌を逸した国民負担を強いてきたが、それから十数年経った未来の国民(=現代の日本人)は、いったい何のメリットを享受できたというのか?

 

給料は下がりっぱなし、雇用は不安定化する一方、社会保障費負担や税負担は重くなるばかり、科学技術水準は他国の後塵を拝し、散在しに来る途上国のインバウンドにたかり、地方では子供すら産めなくなり…といった具合に、注ぎ込んできた辛抱や苦労、我慢の数々は何一つ実を結んでいないではないか?

 

現代版“米百俵物語は、召し上げられた年貢米が無くなるたびに、「おいっ! コメが足りないぞ。ぐずぐず言わずに持って来い(# ゚Д゚)」と、政府や財界のバカ連中から強請られ続けるEndless Unhappy Storyでしかない。

 

だが、これほど分かり切った大嘘をいまだに平気で掃き散らかすバカもいる。

 

リフレ派、消費税反対派、MMT理論を支持するのはなぜ同じ人たちなのか?

(Newsweek日本版 小畑 績 慶應大学大学院経営管理研究学科准教授)

https://www.newsweekjapan.jp/obata/2019/07/mmt.php

「なぜ、リフレ派、消費税反対派、MMT理論を支持するのはなぜ同じ人たちなのか?

ポピュリズムだからだ。もう少し詳しく言えば、現在のコストをすべて先送りにして、今支持を集めようとする政策という共通点があるからだ。(略)

次に、消費税引き上げ先送りは、負担の単なる先送りで、何も説明は要らない。今の有権者には受けるが、消費税を後に引き上げられたときの人々は非常に税負担が大きくなる。(略)

ただひとつはっきりしているのは、メリットは今でコストは将来、ということで、現在世代と将来世代のトレードオフに依存している、つまり、将来世代のリスク負担により現在世代がメリットを受けるという政策で、先送りそのものの政策だ。(略)」

 

コラムの著者紹介で“東京大学経済学部首席卒業大蔵省(現財務省)入省”という経歴自慢がお約束の小畑氏だが、いまだに「緊縮・増税政策=将来のためのコスト負担」、「経済疲弊社会・不況常態化社会=将来受け取れるメリット」という壮大な勘違いを犯している。

 

彼は、MMTをはじめ積極財政を求める意見を“メリットは今でコストは将来”、つまり、無責任な物乞いだと非難しているが、自身が信奉する緊縮財政派に至っては、“コストは今で将来もデメリットだらけ”という体たらく(しかも、20年以上かけて実証済み)のくせに恥ずかしくないか?

 

彼みたいな破滅型ポピュリスト(苦労・辛抱・我慢に悦びや美学を感じる日本人の悪しき性質を利用した人気取り芸人)は、「負担を先送りするな!」と檄を飛ばしたがるが、すべきでない負担(税負担や社会保障費負担)を背負い込むたびに日本の需要力は劣化し、それを糧とする国内の供給力も弱体化を余儀なくされ、高いコストを払って粗悪な他国品を購入せざるを得なくなる。

 

質の悪いポピュリストに騙され続け、米百俵の掛け声の下、長期にわたり艱難辛苦を強いられた挙句に、十数年経って蓋を開けてみれば、そこに待っていたのは明るい未来ではなく、スタート地点よりもさらに貧困化した生活だったという最悪の結果だった。

 

日本人は、緊縮派のバカどもの詐欺まがいの甘言に乗り、永遠に終わらない辛抱や苦労をつまで味わうつもりなのか?

いい加減に目を覚ませ、と怒鳴りつけたい。

 

聖域なきバラマキによる長期かつ大規模な財政政策は、国民の消費力(需要力)を回復させ、やがて供給力の強靭化へと波及する。

供給サイドは、長期にわたり保障された膨大な需要を狙い、技術開発投資や生産力増強投資、人材育成などに打ち込み、科学技術力の向上や雇用の質良化にも寄与するだろう

 

長らく凍り付いたままの資金需要にも熱が入り、金利正常化→機関投資家の運用益向上→社会保障財源増加→社会保障の質の向上につながり、弱者や高齢者の安心感も飛躍的に高まるだろう。(社会保障費が足りぬなら、紙幣増刷により補填してもよい)

 

小畑氏のようなエセ論者がポピュリズムだと非難する政策(超積極財政策)は、バカどもの妄想をあっさり裏切る形で、“今を生きる国民にメリットをもたらし、将来世代にはより大きなベネフィットをもたらすだろう。

 

米とは違い、貨幣の類いは、発行権を有する国家の意志でいくらでも創り出せるのだから、そんなものを惜しんで、真の国富たる供給力やそれを支える人材の育成という大事業を疎かにしてはならぬ。

 

(貨幣)ケチって貯め込むほど愚かな行為はない。

米百俵(多額の貨幣)を広くばらまき、それを食した(仕事や所得を得た)国民が、元気に働き、技術を磨くようにれば、遠くない将来に、より多くの、そして、より良質なコメが千俵でも万俵でも収穫できる。

 

小畑氏みたいな近視眼的インチキポピュリストには、貨幣の意味について、顔を洗って一から勉強し直してこい!と言っておきたい