摂津ぶらり考③~御霊神社と瀬織津姫~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

大阪中央区にある
御霊(ごりょう)神社は、

瀬織津姫(せおりつひめ)を
祀っています。



大祓詞(おおはらい)に登場するので

祓戸大神(はらえどのおおかみ)

ともいわれますが、

ホツマツタヱでは、
男神・天照大神の
正室として描かれています。

天照大神に正面から
向かうことのできた方
ということで
向津媛(むかつひめ)
という神名もあります。

兵庫の廣田神社では

向津媛として
祀られていましたし、

六甲比命神社は、
瀬織津姫さまの
御霊が宿る磐座だと
いわれています。

 



ではなぜ
瀬織津姫さまが
祀られるようになったのか、

それにはまた
太古の摂津を
語ったほうがよいようです。



縄文時代のはじめ、
大阪の内陸は
河内湾という
巨大な入海がひろがっていました。

その範囲をざっくりいうと、

 

兵庫の西宮神社から、

伊丹空港を経て、

高槻を北限として、

 

生駒山麓沿いに南下、

八尾からは西に

平野までのびて、

 

そこから急に北上して

大阪城のあたりまで

洲が伸びていたそうです。

 

そして大阪城からは、
住吉神社のあたりまで

海だったといいます。

 

地図が観たい方は

こちらのサイトがわかりやすいです。
https://www.suito-osaka.jp/history/history_2.html



弥生時代にはいると、

洲が新大阪まで伸びて
湾の口が狭まり
淡水の河内湖が
できたといいます。

水没域もやや狭まり、

北は守口から、
東は生駒山、
南は生野あたりまで
だったようです。



5世紀の
仁徳天皇の時代になると、


治水工事によって
さらに水が引き、

幾筋もの川と、
無数の島が

できあがったといいます。

湖は、

さらに狭まって
草香江(くさかえ)という
池になったようです。

それでもまだ巨大で、
おおよそ東成区と
東大阪市の北半分が

水底に沈んでいたようです。

御霊神社の創建は、
それから約300年後の
850年だといいます。

 



飛鳥・奈良と栄華を極めた
難波津が衰退し、

渡辺津
港湾機能を継いで
ひっそり運営されていた
平安時代のことです。

河口付近であるここにも
多くの島や中洲が
形成されていたといいます。

これらの島々を
八十嶋(やそしま)と
呼んでいたそうです。

当時は

日本国土のことを
大八洲(おおやしま)
と呼んでいたので、

日本の
縮尺版や象徴として

いたのでしょう。

 



ここでは、
八十嶋祭が
行われていたといいます。

天皇の即位儀礼の一つで、
新天皇の日本統治の証をたて、

その世が長く続くよう
祈願する祭りだそうです。

都より遣わされた内侍が
天皇陛下の衣を、
西の海に向かってヒラヒラと振り、
禊を行うのだといいます。

ホツマツタヱの
稲虫祓いのシーン、
「西の海さらり」を
彷彿とさせます。

その八十嶋祭を行った場所が、
御霊神社の前身である
圓(つぶら)神社だといいます。

 



ここには
円形の入り江があったため
圓江(つぶらえ)といい、

そこに
圓神祠(つぶらしんし)という
祠が建てたれると、

祓戸の神である
瀬織津姫さまと、

産土神である
津布良彦神(つぶらひこ)
津布良媛神(つぶらひめ)を
祀ったといいます。



また、
八十嶋祭の祭神は


生國魂神社でも祀られている
生島神(いくしまのかみ)
足島神(たるしまのかみ)
だそうです。

坐摩神社
オコロ兄弟ですね。


ところで、

現在の御霊神社は、

1594年にこの地に

遷座しています。

 

圓神社のあった旧社地は、

ここより400mほど西の、
靭(うつぼ)公園内にある

うつぼ楠永神社だと

言われているようです。

 

おそらくもとは、

「うつぼ」ではなく

「うつほ」だったのでしょう。

 

ヲシテ文字でいえば、

母音の「○」であり、

円や丸であらわされます。

圓ですね。

 

空(そら・から)であり、

0(ゼロ)であり、

宇宙のことでもあります。

 



それが、
豊臣秀吉の時代に、
信仰の厚かった大名から
寄進地を受けて、

遷座したのだそうです。

その際に、
大名が祀っていた、
八幡さまと鎌倉権五郎を
合祀したといいます。

八幡さまとは、

応神(おうじん)天皇のことです。

鎌倉権五郎とは、
平安時代に活躍した
伝説的な武将で、

歌舞伎の「暫」の
モデルにもなった

鎌倉景正(かまくらかげまさ)

のことだといいます。

人の魂や

怨霊を祀ることを
御霊信仰といい、

また源五郎を祀る宮を、
五郎之宮ともよんだことから、

この源五郎を祀る宮は

全国的に御霊神社と
呼ばれているようです。


当時は
十一面観音を本尊とする
宝城寺が境内にあり、

西国三十三か所にあやかった
「大坂三十三ヶ所観音参り」の
三十三番所だったといいます。

近松門左衛門の「曽根崎心中」にも
冒頭に宝城寺が

描かれているといいます。

その舞台となった

お初天神は、

御霊神社から北に

1.5キロほどですから、

地理的にみても面白いですね。

ところが廃仏毀釈により、
神宮寺は撤廃され、
社領が狭くなったといいます。



ビルの前に立つこの鳥居は、
旧社領の広さが
ここまであったという名残だそうです。

また当時、
境内では落語や芝居、
人形浄瑠璃から影絵など
さまざまな見世物が
みられたといいます。

境内の五福恵美須は



豊臣公の時代に、
伏見の呉服商人が
この地に集められた際、


黄金の恵美須神像が下賜された
ことにはじまるのだそうです。

呉服が、五福へと
転化したといいます。

が、

瀬織津姫さまときたら、
西宮のワカヒメさま
考えずにはいられません。


境内にはさらに、
松之木神社と、
大黒社とお不動さんが
いらっしゃいました。

 



こちらもまた
とてもいわくありそうな
場所なのですが、

詳しいことはわかりませんでした。

 

さて、

今回の摂津ぶらり考ですが、

草場一壽さんの個展を

観に行った帰りに巡ったものです。

 

瀬織津姫さまのポストカードを

いただきましたので、

 

 

これもご縁だろうとおもい、

御霊神社を目指しました。

 

2年ほど前に、

靭公園の近くで

働いていたことがあり、

 

お昼になると毎日、

靭公園をぶらついていました。

 

すごく気の和らぐ場所で

とてもありがたかったのですが、

 

今回、瀬織津姫さまに

所縁のある場所だと知って

とても驚きました。

 

当時はまだ

ホツマツタヱも

瀬織津姫さまのお名前も

存じ上げなかったのですが、

 

こうして知らず知らずのうちに

恩恵をうけていたのだなと

改めて感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 

 

摂津ぶらり考 ~終~

 

 

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☆摂津ぶらり考全記事リンク☆

摂津ぶらり考① ~難波神社~

摂津ぶらり考② ~坐摩神社とオコロ~

摂津ぶらり考③ ~御霊神社と瀬織津姫~