山背国の北野② ~北野天満宮~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

ぼくは故郷が、
福岡の太宰府市であり、

また伯父が
太宰府天満宮

(だざいふてんまんぐう)の
神職でもあったことから、

祭神である
菅原道真

(すがわらみちざね)公には、

なみなみならぬ
思い入れがあります。



ですので、
道真さまに関しては、
太宰府天満宮まで
取っておきたいと思っています。

ここでは、

道真さまの周辺のできごとを

書いてみたいと思います。

というのも、
この北野の地は、
もとは別の神様を
お祀りしていた場所だといいます。



北野神社の創建は

947年であり、

平安時代の中期ごろです。

794年ごろの

平安京遷都時には、

平野(ひらの)神社

 

平安京の北西、
乾(いぬい)の方角を

守護していました。

その境内か、

もしくは

隣接していたのか、
 

右近馬場(うこんのばば)という

近衛兵(宮中警備)の乗馬場に、


天神地祇(てんじんちぎ)を

祀る社があったといいます。

 



天神地祇とは、
天つ神(あまつかみ)
国つ神(くにつかみ)の
すべての神様のことだそうです。


この社が、

土地を治める地主神として

祀られていたといいます。

そこへ、

道真公の御霊が

あとから祀られたようなのです。

現在、
道真さまを祀る神社を
「天神さま」というのは、

北野の地に、
天神地祇が祀られていた
ことに始まるようです。

この流れが、
全国に広まり、
「天つ神」や「天地地祇」を
祀っていた社に、

菅原道真公を
あわせ祀るようになり、

菅原道真公の名と
天神信仰が
広まっていったようです。



そのため、
北野天満宮では

参道を直進すると

本殿ではなく、


「天神地祇」を祀る
地主神社という摂社に
行き当たるように

なっているというのです。

たしかに本殿は
参道を避けて
造ってあるようでした。

 



ではなぜ、

この地に祀ったのかというと、
 

御託宣が

下ったからだといいます。



道真公の死後、
天災がつづく京都で、

多治比文子
(たじひのあやこ)という

女性の枕元に
道真公の霊があらわれたといいます。

『右近馬場に祠を建てよ』

道真公の御霊は
こう言ったそうです。

天啓をえた文子は、
ジャンヌ・ダルクのように

奔走するのですが、

貧しく身分の賤しい女の話には、
誰も耳を貸しませんでした。



そこで文子は、
自宅の庭に祠を建てて、
お祀りしたといいます。

それから

5年が経ちました。


すると今度は

近江の比良宮(ひらのみや)

(比良山の麓の天満神社)の神官
神良種(みわのよしたね)の子
神太郎丸(みわのたろうまる)に

おなじ御託宣が
下ったといいます。

そこで神父子は、
文子をたずねて結託すると、

右近馬場近くの
東向観音寺

(ひがしむかいかんのんじ)へゆき

住職の
最鎮(さいちん)に
協力を願ったといいます。

 



このころになると、
朝廷内や人々の口にも

 

平安京の天災は、
道真公の祟りではないか

という噂がのぼっており、

 

また

最鎮の口添えもあって、

 

ようやく

御託宣が聞き届けられました。

こうして947年に
北野天満宮が

創建されたといいます。

道真公の死からは、

すでに

44年が経っていました。

こうした

文子の奮闘もあってか、


文子が祀っていた

道真公の御霊もまた、

文子天満宮として、

 

参道の正面に

鎮座しているのでした。



もちろん、
文子が自宅で祀っていた祠も、
京都駅の近くに
文子天満宮として残っており、

 

その御霊を

北野にわけたといいます。

また、
文子天満宮の社伝では、


多治比文子は
道真公の乳母だったと
言われているようです。

とするとこの方、

百歳ちかい方だった

のかもしれません。

もしそうだったとすれば、

途轍もない愛情です。

さらに、
東向観音寺は
九州から道真公作の

十一面観音を招来して

本尊としているといいます。



さてここで、
話しを前回の
平野神社に戻します。

土師(はじ)氏という
古代氏族が出てきましたが、

その
土師氏の子孫が
菅原道真だといいます。

さかのぼれば
野見宿祢(のみのすくね)へと
ゆきつくと書きましたが、

さらにさかのぼれば、
天照大神の子、
天穂日命(アメノホヒ)へと
ゆきつくようです。



ホツマツタヱでは、
やがて
ヤマタノオロチと化す
モチコが母親です。

瀬織津姫(せおりつひめ)が

育ての母となり、
 

六甲山には
磐座がのこっています。

 

モチコはやがて、

九頭竜へと転生するのですが、

 

そういえば

京都・八瀬の

九頭竜大社でも、

 

当主はまず

庭先で祀るとこから

はじめていました。



古墳や埴輪を
造営していた土師氏のうち

奈良の

菅原町に住んでいた一族が、


菅原宿禰(すがわらのすくね)の

名を賜ったのが、
菅原氏の始まりだといいます。
 

現在ではその地に、

菅原天満宮が残っているようです。



始祖は、
菅原古人

(すがわらのふるひと)といい、

優れた学問を修めたことから
桓武(かんむ)天皇に仕えて、

勉学を教授していたといいます。

しかし
儒家の教えに
厳しく帰依していたためか、

金銭的には苦しく、
家族は貧しい生活を
送っていたともいいます。



古人の子、
菅原清公

(すがわらのきよきみ)もまた、

すぐれた学問を修め、
文章博士(もんじょうはかせ)という


漢学や中国の歴史を教える
最高学府の教官となって、

早良親王(さわらしんのう)
仕えたといいます。

遣唐使にも選ばれ
最澄(さいちょう)とともに
中国へ渡ったそうです。

各種大臣や長官も
歴任して
京の都になくてはならない
存在であったといいます。

 

そのあまりに偉大な存在から、
70歳ちかくなって
身体を悪くしてからも、


内裏前の門まで
牛車に乗ったまま来ことを

たたひとり、
許されていたといいます。



清公の功績で、

いまでも残っているものは、

人の名前を
和風の「~麻呂」などから、
唐風の漢字一字や二字表記に
改めたことだそうです。

「清公」や「道真」などの

唐風表記名は、

このころからはじまったようです。

また女性の名前を
「~子」としたのも
清公だといいます。



この清公の子が

菅原是善

(すがわらのこれよし)です。

この方もまた
優れた学問を修め、
幼いころから天皇家へ仕え、

文章博士となり
貴族にのぼり、
各種大臣や地方長官を

歴任したようです。

このころには、

もう菅原家は

盤石となっていたのでしょう。

 

その邸宅跡も、

京都御所の西に

 

菅原院天満宮神社
(すがわらいんてんまんぐうじんじゃ)

として残っています。

 


この是善の館に

産まれたのが、

 

のちに

天神さまとして祀られる
菅原道真です。

ですから、

その系譜は

 

天照大神

天穂日命

野見宿禰

土師氏

菅原古人(曽祖父)

菅原清公(祖父)

菅原是善(父)

菅原道真

となるようです。
雅なお家柄ですね。

生家については、
ほかにも

京都下京区にある
菅大臣(かんだいじん)神社や

京都南区にある
吉祥院(きっしょういん)天満宮が
いわれているようです。

どこも

菅原氏に関する
神社には違いないので、

いずれ

足を運んでみたいと思います。


山背国の北野 ~終~

 

 

☆山背国の北野全記事リスト☆

山背国の北野① ~平野神社~

山背国の北野② ~北野天満宮~

 

 

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