紀伊国の熊野めぐり⑤ ~大斎原~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

熊野本宮大社
(くまのほんぐうたいしゃ)より
500メートルほど南にある

大斎原(おおゆのはら)です。



2000年に完成した
日本一の大鳥居でも
有名なここは

熊野本宮大社の
旧鎮座地だといいます。



明治22年(1889年)の
水害にさらされるまでは

1万1千坪をほこる
巨大な中洲だったようです。

熊野川(くまのがわ)
音無川(おとなしがわ)
岩田川(いわたがわ)
の合流地点にあり、

樹々の生い茂るそこは
河合に浮かぶ
神秘の島のようだったといいます。

 



江戸時代に
橋が架けられるまでは、

音無川にはいって
草鞋や衣服を

濡らしながら渡る

濡藁沓の入堂
(ぬれわらうつのにゅうどう)
を行っていたといいます。



もちろんこれも
禊のひとつなのですが、


『入堂』というように
平安時代以降は
神仏習合も色濃く、

とくに浄土信仰と
結びついてからは

この地は
極楽浄土と
されていたといいます。


 

熊野古道をたどる

参詣者たちは、


果無(はてなし)山脈から流れる
富田川(とんだがわ)を
三途の川に見たて、

その川をたびたび
越えることで

儀礼的に
死を体験していたとも

いうようです。



そもそも
熊野詣は、

慾を断ち
身の穢れをはらって
極楽浄土へ往生する
というのが本願だったらしく、

よりよく生きようとする
人びとの願いが
そこにあったようです。

また、
身分の貴賤や
老若男女を問わず

受け入れたというのも


熊野詣がにぎわった
理由のひとつだといいます。


かつての境内には
5棟12社の社殿があり、

ほかにも
摂末社や楼門、
神楽殿、能舞台、
文庫、宝蔵などが
あったといいます。

 



しかしそれらは、
 

熊野本宮大社に遷された
上4社以外は

ことどこく流出し


おおくの古文書も
失われたといいます。

 

いまでは、

石の祠が2つならぶだけの

広々とした公園のように

なっていました。

 

 

しかしながら、

極楽浄土とはよくいったもので

 

この地にたつと

なにか言葉にならない

高揚感につつまれ、

 

とても

清々しい心地がしました。

 

これはやはり、

体験しないとわからないこと

なのかもしれません。

 

なお、聖地につき

撮影禁止とのことですから

遠景のみとなっています。

 



ちなみに
中4社では、

天照大神からつづく
鸕鶿草葺不合尊
(うがやふきあわせず)までの
歴代の神々が

祀られていたようです。

また

下4社では、
 

イサナミの死によって
生まれたという

軻遇突智命(かくつち)
埴山姫命(はにやまひめ)
弥都波能売命(みづはのめ)
稚産霊命(わくむすび)

が祀られていたようです。



大斎原の
広大な社地は
舟形をしていたらしく、

 

これを
川をくだる舟に

みたてたために

 

祭神である

家津美御子神(けつみみこ)
 

船玉大明神とも

いっていたようです。



社殿が築かれたのは
およそ2000年前の

第10代・
崇神(すじん)天皇の
世だといい、

大斎原の
櫟(いちい)の巨木に
3体の月が降臨したのが
はじまりだといいます。



月の正体はともかく、

 

これら3体の月は

熊野にいらっしゃる神

として祀られ、


当地もはじめは
熊野坐(くまのにいます)神社と
いわれていたようです。

 

3体の月のうち、

まんなかの月を祀った

ともいうようです。


 

とはいえ、
初代・神武(じんむ)天皇の
東征以前にはすでに
鎮座していたとも

いわれているようですから、

ホツマツタヱによれば
クマノ』は


イサナギ・イサナミが
ソサノヲを産んだ地であり

ここには、

イサナギ・イサナミが

長女のワカ姫ヒルコ

三男のソサノヲと暮らした宮が
あったのかもしれません。

 



大斎原の大鳥居と
向かいあうように鎮座する

産田社(うぶたしゃ)には
イサナミの荒魂が
祀られているといいます。



これも、
ソサノヲを産んだイサナミ

ということでしょうか。



また、
ホツマツタヱには

黄泉からかえってきた
イサナギが禊をしたのも
ここではないかという
一文があります。

 




くやみてかえる
もとつみや

いなしこめきお
そそかんと
おとなしかわに
みそきして

やそまかつひの
かみうみて
まかりなおさん

かんなおひ
おおなおひかみ

うみてみお
いさきよくして



妻の死を悔やみながら
かえってきた本宮で、

忌穢醜をそそぐために
音無川で禊をすると

八十禍津日守を任命して
曲(歪)がりを治そうとした。

また、
神直日守と大直日守を任命して
身の穢れを潔くした。




おそらく、
身の穢れを
徹底的にはらうために

穢れをそそぐための
専任の神官を
任命したのでしょう。

マガツヒ(曲つ霊)には、
身から出る
穢れ(マガリ)の処理(祓)を

ナオヒ(治霊)には
身に与える
清らなもの(食事や禊?)を
任せたのかもしれません。



熊野詣の行者は
道中につかった
金剛杖を、


音無川に流して
後世を祈った

ともいうようですが、

これは
贖罪の山羊(スケープゴート)
のように

罪穢れの一切を
杖に負わせて
流していたのかもしれません。

 



ですから
八十禍津日も、


一切の穢れを
あえてその身に請け負って

中世ヨーロッパの
処刑人のような忌み職だった
のかもしれません。

また直日というように、
まっ直ぐ伸びた杖にも、

曲がりを正すという意味が

あるのかもしれませんね。



この神々は、
福岡の天神にある
警固(けご)神社でも
ご紹介しました。

罪穢れ一切を
祓い流すことから、

瀬織津姫(せおりつひめ)さまと
同一視されたようですが、

ホツマツタヱでは
男神・天照大神の
正妻ですから

まったく別の存在と

いいたいところです。


かつて

大斎原にあった摂社の
滝姫社には、


瀬織津姫さまが
祀られていたといいます。


紀伊国の熊野めぐり⑥ へ つづく

 

 

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